写真=北川直樹
2026年7月20日、東京・両国国技館――。
プロボクシングの元世界2階級王者・寺地拳四朗はこの日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、世界3階級制覇を達成した。まさかの王座陥落、サウジでの試合中止を経て、34歳でふたたびたどり着いた世界の頂点。
物語の背景には、かつて同じようにプロボクサーとして世界を目指した父親・寺地永(ひさし)の存在。その父親から授かった、ひとつの技術が関係していた。 リングに立つ息子を、少し離れた客席から見つめていた父親。彼の目には、何が映っていたのか。
* * *
世界戦の開催まで1か月を切ったこの日、寺地永に会うために、京都・宇治にあるB.M.Bボクシングジムを訪ねた。
ジムは、永が引退したおよそ3年半後、2005年3月にオープンした。JR宇治駅で下車し、世界遺産・平等院鳳凰堂へと向かう外国人観光客で賑(にぎ)わう平等院表参道を歩く。徒歩でゆっくり向かっても10分弱。宇治川に架かる宇治橋を渡る手前、観光客で溢(あふ)れる一帯から通りを一本隔てた京都府道15号沿いにあった。
元はパチンコホールだったという建物は、想像していたより大きく堂々としていた。現役時代に応援してくれた後援者からの協力で立ち上げることのできた、永の新たなボクサー人生の拠点。日本ボクシングの歴史にその名を刻むボクサー、寺地拳四朗にとってこの街、このジムは、ボクシングを初めて学び、プロになり、世界を目指した原点の場所でもあった。
ドアを開けて、まず目に飛び込んできたのは、充実したトレーニング設備だ。ダンベルやバーベルを使った本格的なフリーウェイトをはじめ、さまざまなトレーニングマシンが並んでいた。ボクシングではなく、筋力トレーニングを目的に通う会員も少なくないそうだ。その隣には、大手ジムでもなかなかお目にかかれない、試合と同じ公式サイズのリングがあった。延べ床面積がおよそ500㎡という広々とした空間に、黒と赤を基調とした内装が映える。どこかアメリカのボクシングジムを思わせた。
入り口から離れた、一番奥にある受付にいた永は笑顔で出迎えてくれた。
「L.A.ジムを参考にしたんです」
ジムの壁にはマイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド(アメリカ)など往年の名ボクサーの写真パネル。それに、2015年5月2日にラスベガスで開催された、フロイド・メイウェザー・ジュニア(アメリカ)とマニー・パッキャオ(フィリピン)の「世紀の一戦」と呼ばれた王座統一戦のポスターも貼ってあった。さらに、マーク・ウォールバーグ主演、クリスチャン・ベール共演で映画化された『ザ・ファイター』(2010年)のモデルとなった元WBU世界スーパーライト級王者、ミッキー・ウォードのサイン入りポスターも飾られていた。

アメリカのボクシングジムの雰囲気が満載の空間――。
日本らしさを感じさせるものは、「あしたのジョー」のポスターと、拳四朗に関連した試合ポスターぐらいか。永自身の現役時代の写真や試合のポスターはどこにも貼られていなかった。日本タイトルを獲得した際のチャンピオンベルトは持ち回りなので返還したが、タイトルを獲得した場合に自前で作るOPBF東洋太平洋ライトヘビー級のチャンピオンベルトも飾ることなく、自宅のどこかに仕舞ったままだった。
インタビューは、こんな質問で始めた。
5つのキーワード。
それだけをまず、永に投げかけた。
「父」
「母」
「妻」
「息子」
「夢」
求めたのは、考え抜いた答えではない。その瞬間、胸に浮かんだ言葉だった。
「父ですか、父......」
永は、少し視線を落としたのち、顔を上げてこう続けた。
「背中を、子供に対して見せたい」と。
続いて、「母」と聞いた。永は、今度は間を置かず、すぐに「いつまでも甘えたい」と答えた。

父親と母親――。
永は小学1年生、7歳で父親を、大学1年生、20歳で母親を亡くした。
※※※
「当時のことはよく覚えています。父親はバイクで走っているときに、信号無視で来た車に横から衝突されて亡くなりました。当時は今ほど離婚も多くなくて、ひとり親の家庭も少なかったですからね。子供ながらに、自分の家には『お父さんがいない』ということが、ずっとコンプレックスでした」
永は4歳年上の姉との二人兄妹。専業主婦だった母親は、父親が亡くなってからは大阪で仕事を見つけて働き始めた。子供たちが成長し、よりお金がかかるようになると、残業で夜遅くに戻ることも増えたという。それでも家に戻れば、洋服を着替えることも後まわしにして、夕食をこしらえてくれたそうだ。母親と一緒に過ごせる時間は限られた。それでも、たくさんの愛情を与えてくれたと、永は振り返った。
「母親はおしゃれで、いつも綺麗にしていました。反抗期はなかったですけど、思春期の頃は、母親と一緒に歩くのは少し恥ずかしかったですね。でも反発するとか、そういうことは一度もなかったです。同性の姉よりも、男の子だった自分のほうが可愛がられていたのかもしれません。だから、姉からはよくいじめられましたけどね。ヤキモチを焼いていたんでしょうね」
永は当時を懐かしむように話し、少しだけはにかんだ。
少年の頃から身体も大きく活発で足も速く、体育の時間はヒーローだった。小学生の頃に描いた将来の夢は「プロ野球選手」か「天文学者」だった。プロ野球選手は、当時の子供ならば誰しも一度は憧れたのかもしれない。永はどちらかといえば、天文学者のほうにより憧れていた。望遠鏡を覗(のぞ)いて夜空の星を見るのが好きだった。勉強もそれなりにできたし、嫌いでもなかった。

高校入学後は天文部に入った。高校1年生の終わり頃、友達に誘われて、ボクシングジムにも通い始めた。そんな矢先、母親は病を患い入退院を繰り返すようになった。
自分の夢――というよりも「希望」という言葉のほうが正しいのかもしれない。将来のあるべき自分。それを目指して、学費を稼ぎながら勉強を続けた。母親に負担はかけたくなかった。
「高校も大学も、学費は全部、自分で稼ぎました。アルバイト先は、近所のスーパーの中にあったハンバーガーショップでした。当時は、いくら運動で優秀でも、将来ダメになると思っていました。勉強して良い大学に入って、良い会社に就職する。それが大切なんだ、と。
遊びたくても、遊ぶ時間なんてなかったですね。病気の母親に心配をかけたくなかったから、やんちゃをしたり、道をそれたりもできなかった。自分の境遇をねたんで、好き放題してしまう人もいるじゃないですか。本当は自分も、そういうことをしてみたいと思ったりもしましたけどね」
良い大学に入って、良い会社に就職する。
本当にそれは夢なのか。"夢"と表現して良いのか。目標なのか、生きる術(すべ)なのか。当時、永は「よくわからなかった」そうだ。
自分と向き合って考える時間も、余裕もない。毎日ただ必死に生きるだけ。
ただひとつ、自分らしさを感じられること。
汗を流し、無心でサンドバッグを叩き続ける。アルバイトのない日の限られた時間、その間だけはすべてから解放された。
ボクシングをしているときだけは――。

「大学受験に失敗したときに、家を出て、ひとりで生活してみようと思ったんです。大阪の東成(ひがしなり)区にある新聞販売店で、新聞奨学生として寮に入りながら、予備校に通い始めました。朝は3時半から6時半まで働いて、予備校から戻ってきたら夕方4時から6時半まで新聞配達。そのあと飯を食べて、夜は受験勉強。毎日、その繰り返しでした」
浪人生活を経て立命館大学に合格。学部は「就職に有利だから」という理由で経営学部を選んだ。「天文学者になりたい」という小学生の頃に見た夢はとうに忘れていた。代わりに「良い大学に入って、良い会社に就職することが夢」と、自分に言い聞かせるようになった。
ただひとつだけ、永には大学生活でやりたいことがあった。
遊びでもなければ、まして道をそれることでもない。永は入学式当日、まっすぐにボクシング部の門を叩いた。
プロになりたいとも、なれるとも考えていなかった。
大学卒業後の人生も、想像できない。
とにかく、ボクシングがやりたかった、続けたかった。
理由は、それだけだった。