写真=北川直樹
2026年7月20日、東京・両国国技館――。
プロボクシングの元世界2階級王者・寺地拳四朗はこの日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、世界3階級制覇を達成した。まさかの王座陥落、サウジでの試合中止を経て、34歳でふたたびたどり着いた世界の頂点。
物語の背景には、かつて同じようにプロボクサーとして世界を目指した父親・寺地永(ひさし)の存在。その父親から授かった、ひとつの技術が関係していた。 リングに立つ息子を、少し離れた客席から見つめていた父親。彼の目には、何が映っていたのか。
* * *
2026年7月20日、東京・両国国技館――。WBO世界スーパーフライ級王座決定戦。
最終12回、残り30秒――。
相手をロープ際に追い込んだ拳四朗は左ジャブから返した右ストレートで、この試合2度目のダウンを奪った。
試合終了を告げる鐘の音。
拳四朗は勝利を確信し、リング中央で加藤とハイタッチを交わした。
「誰も傷だらけになった拳四朗の顔は見たくないです。見ている人も、応援してくれている方々も、僕も。勝ち続けていたとしても、あんなに被弾するようなボクシングをするんやったら、『もうやめろ』と言おうと思ってました。身体(からだ)が潰れてしまいますから。
でも昨日のボクシングを見て、『これやったら続けてもええな』と思いました。スーパーフライでも、拳四朗本来のボクシングは通用する。『チャンピオンとして長くやれるんちゃうかな』と思いました」
永は試合後、そう話した。

判定結果は3対0――。
拳四朗は世界チャンピオンに返り咲いた。
「新チャンピオンです、寺地拳四朗選手です。おめでとうございます!」
勝利者インタビューが始まった。
右肩にWBOのベルトを掛けた拳四朗は観客席に向かい、「ありがとうございました」と言いながら、ゆっくりと頭を下げた。
「最後は(加藤)トレーナーが『いけっ!』って。練習していたフックからのワンツー。それが綺麗に入って気持ち良かったですね。その印象がすごい......気持ち良かったですね。やってるやつがハマると、『うわっ、加藤さんスゴッ!』と思いました。ありがとうございます!」
いまリング上で涙をこらえていること。敗北しても変わらず応援し続けてくれたファン、サポートしてくれた仲間への感謝の気持ちを素直に述べた。プロ10戦目、25歳で初めて世界チャンピオンになったときは、喜びを爆発させてガッツポーズをし、中継カメラに向かい無邪気にダブルピースをした。いまは違った。
「昔に戻って、ジャブを結構意識して、出入り出入りで、相手に距離をつかませない。原点に戻った、って感じはあるんで。これもお父さんの教え、高見先生の教えでもあります。ほんとにありがとうございます」


次なる目標は「世界スーパーフライ級での2団体統一王者」と話した。実現すれば、3階級目の複数団体統一王者になる。"モンスター"井上尚弥さえも達成していない、日本人ボクサー初の偉業だ。
試合1か月前、京都のB.M.Bボクシングジムを訪ねたとき、寺地永が試合前の会見で語った「強運の息子」という言葉の意味を聞いた。
「最初はノンタイトルやったんです。試合もなかなか決まらへん。三迫(貴志)会長と相談して、『今回はノンタイトルで受けるか』という流れになった。それで『お願いします』と言ったら、たまたまバム(ジェシー・ロドリゲス)がタイトルを返上して空いて、試合が決まった。
拳四朗も挫折があったんで、一時は強運の持ち主というより、人並みやと思ってました。でも今回、大きなチャンスがめぐってきた。高校受験もそうですけど、困ったときにうまいこと助けてもらえて、その後につながるチャンスをいただけた。そういう意味もあって、『強運の息子』と言いました」
では「運」とは何か。永自身は「運」について、どう考えているかも聞いた。
「一生懸命やってたら、向こうから来るもんやと思うんです。ただ、それがいつ来るかはわからへん。いつ来るかわからへんけど、来るまで続けられたら、運に乗れるんやと思います。ひとつのことを一生懸命やってたら、誰にでもめぐってくるんやと思いますけどね」
拳四朗は、再起戦が直前で中止になった不運にも腐らず練習を続けた。そして、フライ級での敗戦から1年後にめぐってきた運をつかんで結果を出した。
運は、待ち続ければ必ずめぐってくる――などという保証はない。
ただし、運がめぐってきたとき、結果に結びつけられるのは準備してきた者だけだ。

永もかつて、拳四朗のように運を待ち続けた。1年よりもはるかに長い時間をかけて。
世界チャンピオンになる夢――。
現役時代、その運はめぐってこなかった。もちろん夢も叶(かな)わなかった。
現役最後の試合から17年目、息子は運をつかみ、夢も叶えた。それは永にとっても、形は少し違うかもしれないが、自分自身の夢も叶ったと思えた、そんな瞬間でもあった。間違いなく、自分のボクシング人生に、ひとつの答えを出せる機会を与えてもらえた。
息子はいまもなお、ボクサーとして夢の中で生き続けている。
「人間、落ちれば落ちる分、上がったときの景色はすごく気持ち良いんで、みんなも心折れずに頑張っていきましょう」
拳四朗はそんな言葉でインタビューを締め括(くく)った。
「Tシャツ、投げます!」
再起戦で勝利したら、ファンに贈ろうと決めていたプレゼント。拳四朗は袋からTシャツを取り出すと、観客席に向かい投げ始めた。そのひとつが、思いがけない場所へと飛んだ。
※※※


「ロスで永会長と出会ったのは1997年。当時、拳四朗は5歳なのかな。すでに子供がいたことは知ってたよ。L.A.ジムで練習したときにルディから紹介してもらった。それで、永会長とも親しく話すようにもなった。ルディはわたしの友人でもあるからね」
翌日会見のあとに立ち寄った、カフェでの談笑――。
永会長についての話題になったとき、三迫ジムの貴志会長はロスでの思い出を話し始めた。
貴志会長は名門・三迫ジムを率いる2代目会長。日本ボクシングの黎明(れいめい)期を代表するボクサーのひとりだった父・仁志が築いたジムを受け継ぎ、多くの選手を支えてきた。拳四朗にとっては、東京で活動する上で欠かせない、いわば親代わりでもあった。
貴志は当時、ロスにはプロモーター修業のために長期留学し、L.A.ジムだけでなくあらゆるジムや関係者と会い、いまの仕事につながる幅広い人脈を築いていた。
「永会長は当時、ライトヘビー級の世界ランカーだったでしょ。日本ではずば抜けた実力者だったから、まともにスパーリングのできる相手はいなかったと思いますよ。それで、試合が決まるたびにロスまで練習に来ていたのかな。『子供がふたりもいるのに、大変だよな』って思った記憶があります。でも、それが拳四朗だったんだよな。まさかこうして、一緒に活動するようになるとはね。縁とは本当に不思議なものだよ」
拳四朗は黙ったまま、三迫会長の話に時々うなずきながら聞いていた。
拳四朗に、永と同じスタイルで同じ質問をしてみた。求めたのはやはり、考え抜いた答えではなくその瞬間、浮かんだ言葉だ。
キーワードは5つ。
「ボクシング」
「夢」
「父」
「母」
そして最後に「息子」。


拳四朗は「心理テストみたいやな」と言って笑顔を見せ、試合開始の鐘の音を待つボクサーのように、視線をこちらに向けた。
「じゃあ始めます」
「はい!」
「ボクシング」
「ボクシング......。えっと、なんだろうな......楽しい、かな。うん、いまは楽しい」
「夢」
「叶う!」
「父」
「パパっ!」
「母」
「ママっ!」
「じゃあ最後の質問。息子」
「ねこっ!」
最初にした「ボクシング」という質問以外は、深く考え込んだりせず即答した。
「大丈夫か、拳四朗。小学生みたいな答えになっているぞ」と笑う三迫会長。
「とんでもないな、大喜利かと思ったわ」と茶化す加藤。
「いや、頭に出たん、はやく言わなあかんな、と思って.........」
世界3階級王者は、昨日とは打って変わり、動揺して大きく取り乱した。


3人とも、昨日見せていた勝負師の表情とは一変、穏やかな笑顔だった。
拳四朗に、永はどう答えたのかを伝えた。
「ボクシング」という問いに永は、「生きがい」と答えた。
「仕事というより、お金にならなくても、ボクシングがあることによって、"生きている"という感覚を抱き続けることができる存在」と――。
「夢」という質問に対しては、一言では答えられなかった。
現役時代は「夢は捨てきれなかった」と話し、「拳四朗がボクシングをやったから、自分の夢も託すことができた」と続けた。そして「もう一度、身内ではない人間を、世界まで行かせたい」と答え、最後に、「いまは、新しい夢を探している途中かもしれません。ボクシングも、拳四朗も関係なく」と話した。
「パパ、そうなんすね」
拳四朗は、真剣なまなざしで耳を傾けた。
「父」という質問には、少し視線を落として考えたのち「背中を、子供に対して見せたい」と答えた。「母」という質問には間を置かず、「いつまでも甘えたい」と答えた。
京都のB.M.Bジムでインタビューした際、そうしたやり取りの中で、父親のいない少年時代に抱えていたコンプレックスについて。最愛の母親を20歳の頃に亡くして両親ともにいなくなってしまったとき、「いつ死ぬかなんて誰にもわからん」という死生観を持ったこと。それは悪いことばかりではなく、サラリーマンを辞めてボクシング一本で生きると覚悟した際、「生きている間に、好きなことをしたほうが良い」と背中を押してくれる力にもなったこと。

さらに、篠原から聞いた永との思い出話も伝えた。
現役最後となった西澤戦を前に練習から戻る車中で、Kiroroの『未来へ』が流れたことがあった。普段は身の上について多くを語らない永がめずらしく、そのときはつぶやくようにして両親について話し始めたと、篠原は教えてくれた。
「この曲を聴くと、父や母のことを思い出すんです」と――。
渡米の覚悟、不完全燃焼のまま引退し、それからはどう思い続けていたのかなど、拳四朗には、聞いたままの話を伝えた。
「初めて知る話ばかりですね。パパの家族についても、ボクシングについても......」
現役時代、永が渡米を繰り返していた頃、拳四朗にとっての父の記憶は、「家にあまりいない人」だった。
拳四朗は、3歳のときに体験した阪神・淡路大震災の日、永が部屋に来た記憶はない。熟睡していたのだから、覚えているはずもないが、永からも聞いたことはなかった。
ライトヘビー級に転向してからはスパーリング相手が見つからず、試合が決まるたびにロスで長期合宿を繰り返していたことも、後年、拳四朗自身もボクシングをするようになり、プロ転向してしばらくして知ったそうだ。
小学生になり、たまに一緒に過ごせる時間があったときも、ボクシングの話をされた記憶はない。そもそも拳四朗は、父親の試合を観戦したことは一度もなかった。毎回、母親だけが応援に向かい、自分自身は、母の実家に預けられて留守番をしていたそうだ。
永について、拳四朗は幼かった頃もいまも「会話は少ないし、何か言われることもないけど、基本は優しい人ですね」と話した。そのぶん母には「昔から甘えてばかりです。いまも仲良いですね」と答えた。
「拳四朗は、良いご両親に育てられたと思うよ、ほんと」
加藤が、弟をさとすような口調で話した。
「はい、自分でもそう思います」

拳四朗に、まだ伝えていない話を思い出した。拳四朗が「ねこっ!」と答えた「息子」という質問。同じように聞いた際、永がした答えだ。
ただ伝える前にひとつ、拳四朗に確認したいことがあった。世界3階級制覇を達成した昨日の試合で勝利者インタビューのあと、観客席に投げたTシャツが、永のいた場所にも飛んできた。それを永がキャッチした場面を目撃したのだ。
あれは、あえて狙ったのかどうか――と。
「えっ、そうなんすか。全然気づかなかった。エーッ!?」
「パパが取った。みんな大笑いしていたぞ」と三迫会長。
「狙ってないすよ。ホンマに!? すごいすね、それ。そんなとこいたかな」
リングサイドからはやや後方にある指定席。拳四朗の投げたTシャツが飛んできたとき、身長187cmの永が、反射的に手を伸ばしてキャッチしていた。
まわりにいた関係者、観客からは笑いが起きた。永は我に返ったような表情をして、すぐにTシャツを遠くの観客席に向かい投げ返した。まわりからはさらに大きな笑い声。永は、照れ笑いとも苦笑いとも、バツが悪そうな顔をして、腰を曲げて大きな身体をかがめた。
「息子」という質問に、永はまず一言、「寂しい」と答えた。そして、そのあとにこう続けた。
「母親にとっては、いくつになっても可愛い存在だと思うんですよ、お腹(なか)を痛めて産んでるから。いま自分が思う息子っていうのは、気持ちは薄いですね、大人同士になってしまったら。
だから、寂しいですね。拳四朗が世界チャンピオンになって、みんなからは羨(うらや)ましがられるんですよ、『立派な息子さんで良いですね』って。でも僕が現役の頃、僕はボクサーで息子はこんな小さかった頃のほうが、良かったなと思います。両手をひろげるだけで、無邪気にかけ寄ってきてくれた頃のほうが。当時はお金に余裕のある生活ではありませんでした。けど、慕ってくれる息子の笑顔をいつも見れた頃のほうが、幸せだったかもしれません。そういう所は......昔のほうが、良かったかもしれません」
いま息子は、ボクサーとしてだけでなく、人としても自立した。
世界チャンピオンになってから地元京都を離れて東京で暮らし始めた拳四朗は、新しい仲間と出会い、新しい居場所を作り、自分の人生を歩んでいた。
永にとっては、両手をひろげるだけで無邪気に駆け寄ってきてくれた、そんなかけがえのない時間はもう二度と訪れないかもしれない。

「ねこみたいなもんすよね、子供の頃の自分は」
拳四朗はひょうひょうとした表情で、さらりと答えた。
「だってモフもペチも、両手をひろげてみせるだけで、無邪気に駆け寄ってきますもん」
モフとペチとは、拳四朗が東京で一緒に暮らす、"ねこ"の名前だ。2匹ともオス。つまり拳四朗にとっての息子たち。モフは毛並みがもふもふしているから。ペチは鼻がぺちゃんこだからそう名付けたそうだ。
「大人になったら、しょうがないもんな。そのぶん、ネコがいるんで大丈夫かも。パパ、今日、モフとペチを京都に連れて帰るの、楽しみにしていたもんな」
拳四朗は来週、オーストラリアへとバカンスに向かう予定だった。その間は京都の実家で、息子たちを預かってもらうそうだ。
最後に。
今朝、ホテルで朝食をともにした永と雑談のなかで話したことを、拳四朗にも投げかけた。
父親である永に、「いま何か伝えたいことはあるか」と――。
「伝えたいことですか。伝えたいこと......なんてあるのかな。でも、嬉(うれ)しいですね、自分の知らない、パパの人生を知れたことは。これから頑張って、恩返ししたいと思います。親孝行はまあ......してはいるんですけどね」
2時間ほど談笑してカフェを出た。
東京はこの日、朝から真夏の強烈な日差しが地面を照りつけていた。最高気温は35℃を超える猛暑。カフェを出てすぐ、JR飯田橋駅へと向かう外堀通り沿いの歩道に立つと、炎天下とアスファルトの照り返しで目を開けるのもしんどく思えた。貴志と加藤は三迫ジム。拳四朗は忙(せわ)しなくコイン駐車場に向かい、自宅で待つ2匹の息子のもとに戻った。
<了>