写真=北川直樹
2026年7月20日、東京・両国国技館――。
プロボクシングの元世界2階級王者・寺地拳四朗はこの日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、世界3階級制覇を達成した。まさかの王座陥落、サウジでの試合中止を経て、34歳でふたたびたどり着いた世界の頂点。
物語の背景には、かつて同じようにプロボクサーとして世界を目指した父親・寺地永(ひさし)の存在。その父親から授かった、ひとつの技術が関係していた。 リングに立つ息子を、少し離れた客席から見つめていた父親。彼の目には、何が映っていたのか。
* * *
「西澤(ヨシノリ)戦を最後にしようとは、考えていなかったですよ。でもこの試合が決まるまでにも、長いブランクができてしまいました。リングに上がりたくて練習を続けても、試合はいつまでも決まりませんでした」
32歳でOPBF東洋太平洋ライトヘビー級タイトルを獲得した寺地永は、およそ1年後、33歳の誕生日当日に初防衛戦を迎え、ガース・カッション(オーストラリア)を7回KOで下した。およそ半年後の2度目の防衛戦ではポウリアン・ラトゥ(フィジー)を2回KO。3度目の防衛戦はおよそ1年後、34歳7か月のときで、ジャミー・ウォーレス(オーストラリア)を12回判定で退けた。ちょうどいまの拳四朗と同じ年齢である。だが永にはこの間、一度も世界挑戦のチャンスはめぐってこなかった。
「夢は捨てられなかったですよ」
と永は答えた。
WBCでは最高4位まで上昇。ランキングだけで言えば、世界挑戦は可能だった。アメリカ合宿でも確かな手応えを得ていた。なのに、待てど暮らせどチャンスは訪れなかった。

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2000年9月6日、東京・後楽園ホール――。
OPBF東洋太平洋ライトヘビー級タイトルマッチ、4度目の防衛戦。永は日本ミドル級タイトルを獲得して以来およそ7年ぶりに、日本ボクシングの聖地に立った。
挑戦者は前OPBF東洋太平洋スーパーミドル級王者、西澤ヨシノリ。会場は満員御礼。ただしファンの多くは相手側。東京にある名門ヨネクラジムに所属する西澤に関係する人たちや応援団だったように思えた。だが、アウェー戦は慣れていた。初回開始1分過ぎにダウンを奪うと、その後は安定した試合運びで判定勝利し、4度目の防衛に成功した。しかし――。
「試合が決まらなければ収入の当てもつかない。家族の生活も守らなければならない。後援会や応援してくださるいろいろな方に助けてもらいました。1年9か月ぶりに、ようやく4度目の防衛戦が決まった。試合も勝つことができて、しばらくの間は、家族も普通に生活できるぐらいのファイトマネーが入ってきました。でも『また試合が決まらなかったら、以前の生活に戻ってしまうのか』と思ってね。これ以上、妻や息子たちにも迷惑はかけられない。ボクシングを続けたい気持ちはありました。でも......」
4度目の防衛に成功した永の年齢は36歳5か月。
試合が決まらない間も欠かさず練習を積み重ねてきた肉体に衰えは感じなかった。
「でも......」
永は少し間を空けて続けた。
「もう限界なのかな、と」
じつは4度目の防衛に成功した西澤戦のあとに、世界挑戦の話も持ち込まれた。しかも、さほど時期は離れていないタイミングで2度、である。ただし条件はあまりに理不尽だった。
「どちらもお断りしました。最初は、WBOのライトヘビー級チャンピオン、ダリウス・ミハエルゾウスキーです。場所はドイツ。試合当日まで、2か月あるかないかでした。提示されたファイトマネーもだいぶ中抜きされて、足元を見られていたように思います。とにかく、勝利を目指すには、準備期間があまりに短すぎました。
2度目は、WBCの世界クルーザー級チャンピオンだったファン・カルロス・ゴメスです。場所はやはりドイツで、同じく準備期間は2か月あるかないかでした。プロモーターを通じて『ゴメスが強すぎて対戦相手が見つからないからどうか』と。しかも僕は、ライトヘビー級なのに、です」

ポーランド出身のミハエルゾウスキーは1994年9月、26歳でWBO世界ライトヘビー級王座に就き、その後23度も防衛した。生涯戦績も50戦48勝2敗(38KO)というスーパーチャンピオンだった。
キューバ出身のゴメスは、永より9歳下。1998年2月、24歳でWBC世界クルーザー級王者になった。のちに同王座を10度防衛し、生涯戦績は55戦51勝3敗 無効試合1、38KO。ミハエルゾウスキーに負けず劣らずの実績を残した世界王者だった。
いずれも規格外の世界王者。しかも、準備期間はあまりに短い。ゴメスの場合はさらに、2か月以内に10kg以上も増量して、クルーザー級に適応する身体を求められた。どう考えても、現実的ではなかった。
もちろん、世界のリングに立ちたい気持ちはあった。アジアの一世界ランカーが規格外の世界王者に挑んだとしても、勝利を予想する者はいなかったかもしれない。それでも戦う以上、勝利を目指すのがプロのボクサーだと考えていた。
夢は、世界挑戦ではなく世界チャンピオン。
そう思い続けてボクシングを続けてきた。準備も整わないまま、報酬や実績、世界チャンピオンの防衛戦を成立させるための「かませ犬」役としてリングに上がることは、プロとしての誇りが許さなかった。
世界戦の話は流れた。
OPBF東洋太平洋の防衛戦も決まらない。
4度目の防衛から1年が過ぎた頃、OPBF東洋太平洋ボクシング連盟からは「王座を防衛するつもりはあるのか」と問い合わせが来た。
防衛するつもりでも、試合が決まらなければどうすることもできない。後援会からの金銭的な支援も、試合が決まらなければ受け続けるわけにもいかない、と思った。永は、家族の生活を守るためには、ボクシング以外の仕事も探さなければならない状況になりつつあった。

2001年10月17日、永は5年半も保持してきた王座を返上し、正式に引退した。
「普通に仕事もするようになり、日が経(た)つにつれて、だんだんとモチベーションも下がってきてしまいました。コミッションから問い合わせが来たとき、『もう潮時かもな』と思いました。10月17日に届け出た理由には、特にこだわりはありません」
日本ミドル級王座は、3度防衛。
東洋太平洋ライトヘビー級王座は、4度防衛。
世界ランキング最高位は、WBC4位。
唯一敗北した相手は、日本人初の世界ミドル級王者になる、若き日の竹原慎二。
生涯戦績は、24戦20勝1敗3分――。
プロボクサーとして37歳6か月と12日まで現役を続けた永は、結局、世界のリングに立つことは一度もなかった。
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「51.8、アンダー!」
7月19日、東京ドームホテルで行われた試合前日の公開計量――。
拳四朗はスーパーフライ級リミットの115ポンド(52.16kg)を0.36kg下回る、51.8kgでクリアした。拍手を浴び、軽く笑みを浮かべながらガッツポーズ。首筋付近から肩まわり、上腕にかけての筋肉は、ライトフライ級からフライ級に上げた頃よりもさらに逞(たくま)しさを増していた。
「減量は、昔に比べたら余裕ですね」
「今夜のリカバリーめしは、シャケの西京焼きです。自分で漬けてきました」

公開計量日は、本来は取材なしだが、拳四朗は緊迫して張り詰めた様子もなく控え室で気軽に応じ、取り囲んだ大勢のメディアの問いかけにも自然体で答えていた。
「リヤドのときのように、夜中に電話来ないように......」
「ほんと、わかんないすもんねえ」
2025年12月末、サウジアラビアの首都リヤドで開催された試合はまさかの事態に見舞われたが、今回に限って言えば、結果的にはフライ級からスーパーフライ級転向の初戦に向けて、万全の体制で身体づくりができた。
囲み取材もお開きになった。
カメラマンや記者などメディア関係者が控え室から退出し始めたタイミングを見計らい、ひとつだけ、拳四朗と加藤健太に質問した。
父、永にも、京都のB.M.Bジムを訪ねた際にした質問。
「明日の試合、カギになるパンチは、何だと思いますか」と――。
拳四朗と加藤。答えは同じだった。