「吉田拓郎=フォーク」は日本の音楽史上最大の誤解! 広島のエレキバンドの走りだった!

構成/永堀アツオ 撮影/タイコウクニヨシ

『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』著者の田家秀樹氏(左)とスージー鈴木氏『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』著者の田家秀樹氏(左)とスージー鈴木氏

今年80歳を迎えた吉田拓郎といえば、フォークソングのイメージが強いが、田家秀樹氏とスージー鈴木氏の共著『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』(インターナショナル新書)は、そんな「通説」からアーティストを解放する。

拓郎、沢田研二、矢沢永吉、井上陽水、中島みゆき、松任谷由実、桑田佳祐、浜田省吾、佐野元春、松田聖子、中森明菜、忌野清志郎、氷室京介――歴史をつくった13人のアーティストの功績、知られざるエピソードを語りつくす対談本だ。本書より一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目)

【60年代後半、ポピュラー音楽を変えたふたつの革命】

鈴木 実は私、吉田拓郎はたいして聴いてこなかったんです。1966年生まれで、音楽を聴くようになったのが小学校3年生、だいたい10歳の頃。吉田拓郎ブームが終わった後のニューミュージックの時代、70年代後半から本格的に音楽を聴き始めたんですが、そのときに周りのひと世代上のお兄ちゃんたちが「拓郎! 俺たちの時代!」と暑苦しく盛り上がっているのが嫌だったんです。大学生になると、「はっぴいえんど中心史観」(はっぴいえんどが確立した日本語ロックのスタイルや思想を絶対視する史観)に染まり、フォークなんか時代遅れだという勝手なレッテルを貼って、ますます聴かなかった。

私が吉田拓郎を真面目に聴き始めたのはつい10年前ぐらい、2015年頃からです。田家さんのご著書『小説吉田拓郎 いつも見ていた広島 ダウンタウンズ物語』(2007年/小学館)などを読みながら聴いていきました。3枚目のアルバム『元気です。』(72年)や4枚目の『伽草子』(73年)を聴いて驚きました。こんなにかっこよかったのか! と。演奏もいいし、録音もいい。急いでフォローしなきゃと思いましたね。私の拓郎歴はまだ浅いですが、リアルタイムで見ていらっしゃった田家さんの話を根掘り葉掘り、うかがっていこうと思います。

田家 スージーさんと僕(1946年生まれ)は年齢が20歳違うでしょう。この20年の差というのはけっこう大きくて、数字だけでは表せないぐらい、70年代という時代にはいろんな側面があったんです。

鈴木 田家さんは吉田拓郎と同級生なんですよね。

田家 同い年です。70年代は、拓郎さんに限らず、説明するのが難しいことがいっぱいあるんです。80年代と比べても、世相も違えば、若い人たちの生活も違うし、音楽シーンも、メディアのあり方も違う。だから、時代について語らなきゃいけなかったり、音楽業界について語らなきゃいけなかったり、拓郎さんという人間について語らなきゃいけなかったり、本当にいろんな要素がある。

鈴木 関連書籍などで調べていくと、デビューした1970年から5年間の吉田拓郎は、本当にいろんなことをやっていますね。

田家 『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』が本書のタイトルですが、確かにJポップは吉田拓郎から始まっているんです。ただ、カレンダーをめくるように、拓郎さんがデビューした1970年6月1日からがらりと何かが変わったということではなくて、そこに至る前提がありました。

日本のポップミュージックは60年代後半に、明らかにそれまでにはなかった革命的な出来事がふたつあって、それが今の時代にも連綿と繋がっている。

ひとつはバンドの登場です。ビートルズやローリング・ストーンズら、エレキギターを使った集団が奏でる音楽が、日本でも60年代後半に始まり、GS(グループ・サウンズ)がブームになった。もうひとつはシンガーソングライターの台頭です。自分が思っていることを自分の言葉で、自分のメロディで、自分の声で歌う。代表格としては荒木一郎さんや加藤登紀子さんがいて、1966年の「第8回日本レコード大賞」の新人賞を獲っているんですけど、ふたりともそのときに自らの音楽活動を「自作自演」という言葉で表現しているんですよ。

鈴木 まだ「シンガーソングライター」という言葉はなかったんですね。

田家 そう。「自作自演」歌手なんです。それを起点にひとつの流れができて、関西フォーク(京都や大阪を中心に起こった、反戦歌やプロテストソングを歌う音楽ムーブメント)に至り、ザ・フォーク・クルセダーズ(メンバーは加藤和彦、北山修ほか)や、高田渡、遠藤賢司、岡林信康らが登場した。関西フォークはアンダーグラウンドで、社会的な認知がされていなかったですし、政治的メッセージも強く、学生運動と一体になっている音楽でした。

そこに拓郎さんが出てきたわけです。「自作自演」の関西フォークを土壌にしながら、それに加えてエレキギターを使ったバンドであるGSをも踏まえたソロアーティストとして、それまでとはまったく違う形のデビューをしたという意味でも、確かに日本のポップスは吉田拓郎から始まっているんです。

【広島のエレキバンドの走り「ザ・ダウンタウンズ」】

鈴木 田家さんの『いつか見ていた広島』で非常に驚いたのは、一般的には「吉田拓郎=フォーク」のイメージがありますが、彼はGSをとても意識していたんですね。

田家 日本の音楽史上、こんなに誤解され、曲解され、本来の姿が伝わっていない人は他にいないと思います。そのことを一番ジレンマに思い、いまだにトラウマに感じているのが拓郎さん本人でしょう。「吉田拓郎=フォーク」という、70年代のメディアのいい加減で乱暴な扱い方があった。でも、そういう括り方をしなければ、世間に浸透しなかったという当時の実情もあったかと思います。

鈴木 何を隠そう、私も吉田拓郎といえばギター一本でがなってる、歌詞のメッセージ性が先行する音楽というイメージを持っていました。

田家 そういうイメージが流布していましたからね。でも、少年時代に拓郎さんが最初に手にした楽器はウクレレですから。その後にエレキギターに目覚め、ビートルズを真似た4人組のバンドを始めています。

鈴木 1965年に地元の広島で結成したザ・ダウンタウンズですね。音源や動画が残っていますけど、演奏がうまいですよね。

田家 ダウンタウンズが中国地区大会で優勝し全国大会に出た「第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」(1968年)で、ドラマーはベストドラマーになっているし、ギタリストは広島で一番うまいギタリストだと言われていましたから。拓郎さんもカワイ楽器でギターの先生をやっていました。ダウンタウンズは、広島におけるエレキバンドの走りだったんです。だから、「吉田拓郎=フォークシンガー」は最大の誤解であって、本来は「吉田拓郎=リズム&ブルースシンガー」なんですよ。ダウンタウンズでは最初はサイドギターで、徐々にボーカルをやるようになる。その前はドラムをやっていたこともあります。

鈴木 マルチプレーヤー。音楽のIQが高いんですね。

田家 米軍岩国基地(山口県)でリズム&ブルースを演奏していたんですよ。

鈴木 上京して渡辺プロダクションに売り込みに行って軽くいなされるんだけれども、そのとき吉田拓郎にお茶を出したのが森進一だったというエピソードも田家さんの本にありますね。森進一はのちに、吉田拓郎提供の「襟裳岬」で第16回レコード大賞を獲ります。

そして、ザ・タイガース(沢田研二、岸部一徳ほか)に対して、「あいつらには負けねえぞ」とライバル視していた。こうした背景からも、吉田拓郎は日本のボブ・ディランとしてギター一本で出ていくのではなくて、自分たちはバンドで、グループ・サウンズとして成功したかったんだという歴史が読み解けますね。

田家 プロになるんだったらナベプロしかないだろうと、デモテープを作って行っている。でも、駄目だった。そこで、もう俺はバンドはやめよう、と。ボブ・ディランのようにひとりでやればいいんじゃないかと始めたのがフォークだったんです。当時、広島にはアマチュアの学生フォーク団体が複数あって、みんなバラバラで張り合っていたけれど、拓郎さんが、全部一緒になればいいじゃないかと言って「広島フォーク村」というフォーク連合的団体を結成しました。言ってみれば、あれは青春の遊びなんです。カワイ楽器でギター教室をやっていて、女の子たちにも人気があってね。

鈴木 めちゃくちゃ人気だったみたいですね。

田家 街を歩けば、「拓ちゃん!」っていう声がかかったという。

鈴木 私は自分の本で、日本のロックを「大卒ロック」と「高卒ロック」という独自の区分けをしていまして。「高卒ロック」はビジュアルも良くて女子にキャーキャー言われる。GSのほとんどがそうで、割と芸能界寄りのスタンスで活動する。「大卒ロック」は、はっぴいえんどが典型ですけれども、あんまり見てくれが良くなくて(笑)、小難しくて、一部のコアなファンに支持される。吉田拓郎は洋楽をすごく勉強しているし、音楽IQが高いという素質の面では「大卒ロック」なんだけれども、身長が高くてかっこいいから女の子にモテる「高卒ロック」の要素もある。この両面を併せ持っていたところも、誤解を招いた一因でもありますよね。

田家 はっぴいえんどと拓郎さんは同じ70年のデビューでしょう。拓郎さんが6月で、はっぴいえんどが8月なんですけど、拓郎さんのデビュー当時の記憶ってそんなにないんです。「広島フォーク村? 何それ?」という程度の認識で。当時は今のように地方の情報がリアルタイムで東京に伝わりませんから。音楽雑誌だって邦楽は『ライトミュージック』『ガッツ』『新譜ジャーナル』くらいだし、それもみんな楽譜誌ですよ。インタビュー中心でもないし、まだ紹介するほどアルバムも出てなかった。洋楽は69年に『ニューミュージックマガジン』が創刊していますけど、邦楽には音楽シーンの情報を伝える雑誌は何もなかったに等しいんです。

僕は当時、ラジオの深夜放送──文化放送『セイ! ヤング』などの構成作家をやっていました。文化放送のフォーク系の番組の間で、広島フォーク村っていうのがあるらしいとか、デビューシングル「イメージの詩」の歌詞《古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう》っていう言葉がかっこいいよね、というような噂が流れていた程度だったと思うんです。

鈴木 《古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう》──すごい言葉ですよね。70年の吉田拓郎は、どのように世の中に受け入れられたのでしょう? リアルタイムではない世代として僕が想像するのは、戦後25年の1970年、それも原子爆弾が投下された広島から、つるっとした肌のオカッパの若者が出てきて、《古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう》と歌った。《古い水夫》呼ばわりされた、戦争体験者である40代とか50代のおじさんたちはどう思ったんでしょう。ふざけんなと憤ったんじゃないですか。

田家 その層には届いていなかったから、知らなかったと思いますよ。拓郎さんはエレックレコードの契約社員になって(1970年4月〜71年12月)上京してデビューするわけですが、当時はあまりいい経験をしていません。レコード店の店頭でみかん箱に乗って歌ったとか。エレックは印税ではなく月給制で、最初の給料が10万円で1万円札を並べて「俺はこんなに稼いだんだ」と満足したけれど、しばらく経って印税の存在を知って、「これだけしかもらってなかったのか」と落胆したり。

【吉田拓郎を見出した元祖インディーズ・レーベル】

鈴木 日本ロック史にその名がちょいちょい出てくるけど、エレックレコードはあまり良い書かれ方をしませんね。

田家 でもね、ちゃんと功績はあるんですよ。エレックレコード(69年設立)、URC(アングラ・レコード・クラブ 69年設立)、ベルウッドレコード(72年設立)の3社は、日本のレコード会社の歴史の中で初期の革命なんです。当初、メジャーレーベルから出す予定だった岡林信康さんの「くそくらえ節」(69年)や、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」(68年)が倫理規定や政治的配慮により発売中止になった。それなら自分たちでアンダーグラウンドのレーベルを作ろう、と始めたのがURCでした。

鈴木 今でいうインディーズ・レーベルの走りですね。

田家 エレックレコードの始まりはラジオの深夜放送がきっかけでした。エレックの第1回発売は文化放送のアナウンサーだった土居まさるさんの「カレンダー」(69年)という歌です。

鈴木 「セイ! ヤング」で盛んにかけられて評判になったんですよね。

田家 フォークソングブームに火を点けたのはラジオです。ラジオ関東(現・ラジオ日本)、ニッポン放送、そして文化放送、それぞれにフォークの番組があった。

ベルウッドの始まりは、キングレコードの三浦光紀さんというプロデューサーが小室等さんのギター教則本を作って、こんな音楽があるんだと感銘を受けて、「第2回全日本フォークジャンボリー」(70年)にキングレコードの録音車を持ち込んでレコーディングした。

鈴木 あれはいい音で残ってますもんね。

田家 その後、ベルウッドレコードが72年に設立されるのですが、キングレコードの社内レーベルだったので、純粋なインディーズではなかった。そういう意味では、URCとエレックが純粋なインディーズ・レーベルの走りですね。

エレックレコードの浅沼勇さんというプロデューサーが、広島フォーク村名義の自主制作盤「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(70年)を聴いて、拓郎さんを見出したわけです。このアルバムはエレックから再発売されました。

鈴木 エレックが吉田拓郎という人を見つけてこなかったら時代は全然違う方向に向かっていったでしょうね。

田家 ええ、広島フォーク村の自主制作盤のアルバムがなかったら、日本の音楽はこんなふうにはなっていないと思います。そういう意味では歴史を変えた一枚ですね。

鈴木 バンドやリズム&ブルースの素養があった吉田拓郎が、戦略的にフォークソングに転じた。エレックの契約社員として雌伏の時を経て、人気に火が点いたのはいつですか?

田家 71年8月の「第3回全日本フォークジャンボリー」の後でしょうね。

鈴木 岐阜県の中津川で開催された日本初の野外フェス「全日本フォークジャンボリー」(中津川フォークジャンボリー)の3回目ですね。吉田拓郎が2時間にわたって「人間なんて」を歌い続けたという伝説が残っている。これで世間にインパクトを与えた?

田家 いや、世間一般にはフォークジャンボリーも知られていませんでしたよ。

鈴木 そうなんですか? 当時の若者はみんな「人間なんて」を歌っていたんじゃないんですか?

田家 若者といっても、その頃に拓郎さんを聴いていたのは、長髪でジーンズを穿いて新宿の街角にたむろしていたり、大学に行かないで喫茶店でタバコを吸ったりしてる、でも音楽だけは好きだっていうような若者ですから。

鈴木 それは日本の若者全体の中でごく一部ですか?

田家 そんなもんでしょうね。ビートルズだってそうだったんですよ。CHABOさん(仲井戸麗市)がよく言っていますけど、「ビートルズが日本の若者たちを席巻したと言われるけど、席巻なんかしてないよ」と。ビートルズに熱狂していたのはクラスで3人もいなかったんじゃないかって。長髪の若者もそんなに多くなかった。当時、長髪にするということはまず、「世の中からドロップアウトします」という宣言ですから、そもそも多数派ではない。

はっぴいえんどの2枚目のアルバム『風街ろまん』(71年)のアルバムジャケットは、そういった若者たちを象徴してますよね。「髪が長い、俺たちと同じだ」と。実家を飛び出てひとりで正月を迎える寂しさを歌った「春よ来い」(70年『はっぴいえんど』収録)という曲なんかが典型ですね。

数は少なかったですけど若者たちの間での認知は、はっぴいえんどのほうが先だったと思います。岡林信康さんのバックバンドをやっていたっていうのがありましたから。拓郎さんは岡林の後続ですからね。

鈴木 私の頭の中では1970年当時の若者といえば、八割がたが長髪で、みんなでフォークソングを合唱し、その土壌から登場した吉田拓郎は下積みなしに一気に成功したというイメージでした。知らないことが多いなぁ(笑)。

●田家秀樹(たけ・ひでき) 
音楽評論家、ノンフィクション作家、ラジオ番組パーソナリティー。1946年、千葉県生まれ。中央大学法学部卒業。著書に『小説吉田拓郎 いつも見ていた広島 ダウンタウンズ物語』『オン・ザ・ロード・アゲイン 浜田省吾ツアーの241日』『読むJ-POP 1945-1999』など多数。

●スージー鈴木(スージー・すずき) 
音楽評論家、ラジオDJ、作家。1966年、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。著書に『桑田佳祐論』『EPICソニーとその時代』『大人のブルーハーツ』『日本ポップス史 1966-2023』『ライバルたちのJポップ史~70年代フォークから令和ヒットの裏側で』など多数。

■『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』  
インターナショナル新書 
語り継ぐべき歴史がある! 日本のロック、ポップスを創成期から取材している田家秀樹と、昭和歌謡から最新ヒット曲まで独自の視点での考察が人気のスージー鈴木。年齢もバックグラウンドも異なるふたりの音楽評論家が、13人のレジェンドたちを「通説」から解き放ち、その実像、功績、知られざるエピソードまで語りつくす、語り下ろし対談本。

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