吉田拓郎が「人間なんて」をエンドレスで歌い、聴衆が暴徒化した伝説の「全日本フォークジャンボリー」の真実

構成/永堀アツオ 撮影/タイコウクニヨシ

『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』著者の田家秀樹氏(左)とスージー鈴木氏『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』著者の田家秀樹氏(左)とスージー鈴木氏

今年80歳を迎えた吉田拓郎といえば、フォークソングのイメージが強いが、田家秀樹氏とスージー鈴木氏の共著『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』(インターナショナル新書)は、そんな「通説」からアーティストを解放する。

拓郎、沢田研二、矢沢永吉、井上陽水、中島みゆき、松任谷由実、桑田佳祐、浜田省吾、佐野元春、松田聖子、中森明菜、忌野清志郎、氷室京介――歴史をつくった13人のアーティストの功績、知られざるエピソードを語りつくす対談本だ。本書より一部抜粋してお届けする。(全3回の2回目)

【ベ平連がステージを「演壇占拠」】

鈴木 「第3回全日本フォークジャンボリー」には、サブステージで吉田拓郎と小室等が延々と「人間なんて」を歌い、トランス状態になり暴徒化した聴衆と一緒にメインステージに攻め込んでコンサートが流会になったという通説がありますけど、実際はどうだったんですか?

田家 メインステージとサブステージがあって、メインステージの主役は岡林さん。はっぴいえんどはロック系のサブステージでした。拓郎さんがサブステージで歌っているときにPAの電源が落ちて、生ギターで「人間なんて」を延々と歌わざるをえなくなり、小室さんが助太刀をしたんです。なかなか終わらせることができず、収拾がつかないので、小室さんが聴衆に向かって、「こっちこそがメインステージで、サブステージは向こうだろう。だからみんなで向こうに行こう」と呼びかけて終わりにしたんです。

だから、扇動したわけではないし、暴動と呼べるほどのものではなかった。拓郎さん自身もメインステージのほうには行っていませんしね。ただ、それとは別にメインステージが荒れたんですね。

鈴木 ジャズシンガーの安田南の演奏中に暴徒がステージを占拠したんでしたっけ。

田家 ええ、ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)の人たちが「演壇占拠」したんです。「商業主義粉砕」なんて今や死語でしょうけど、俺たちの音楽=フォークは商業主義に敵対している音楽なんだ、と。「フォークジャンボリー」なのになぜジャズやロックが出てくるんだ、と。それにテレビマンユニオンが撮影していたのですが、商業主義の象徴のようなテレビカメラが入ってるのはどういうことだ、というわけです。

デモ隊が乗り込んでいって演壇を占拠するっていうのは、当時はよくあったんです。メインステージは討論の場になってしまい、それが朝まで続いて自然流会しました。

鈴木 田家さんはその現場にいらしたんですか?

田家 それがねぇ、熱を出して行けなかったんですよ。僕にとって70年代最大の後悔(笑)。悔しいので、のちに小室さんや実行委員の人らを取材してFM NACK5でドキュメンタリー番組を作って、日本民間放送連盟賞をもらいました。

鈴木 2016年のフジロックで「SEALDs」のメンバーの出演が発表されたときに「音楽に政治を持ち込むな」という批判がありましたけど、当時は「お前らの討論なんていらねえ、音楽を聴かせろよ」という声のほうが少数派だった、と。

田家 それも時代ですよね。西口フォーク(新宿西口反戦フォーク集会)もそうだったんですけど、音楽の場所でありながら、音楽が求められているわけじゃなかった。何を歌うかよりも、みんなで集まってギターで歌うことに意味があった。

鈴木 『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』(71年)というライブアルバムを聴いて、一番衝撃を受けたのが、とにかくトークが楽しい、面白い。はっぴいえんどのような、陰鬱な表情をした人たちが暗い歌を歌っている「大卒ロック」にどっぷり浸かっていた自分からすると、こんなに楽しくって面白くって、一部ではっぴいえんどをネタにしたりして、レイ・チャールズ「What'd I Say」の替え歌「わっちゃいせい」を歌うという屈託のなさ。「吉田拓郎はこんなにポップだったのか!」っていうのが最大の衝撃でしたね。

田家 僕もそうでしたよ。この『ともだち』が出たときに、「こんなに楽しいライブアルバムがあるんだ」と思った。ライブアルバム自体がまだ珍しかったですけどね。

鈴木 「実況録音盤」って書いてありますもんね。

田家 それ以前にはザ・フォーク・クルセダーズの解散コンサートや岡林さんの日比谷野音公演の3枚組ライブ盤などがありましたけど、MCがこんなに楽しいというのは、これが最初でしょう。

岡林さん、関西フォークには学生運動の匂いがあった。はっぴいえんどにもそれは残っていましたが、政治とは違う、もっと文化的な志向があった。バンドという形が確立されていて、それまで聴いたことのない音楽をやっていて、髪の毛が長くて、という親近感もあった。それに対して、拓郎さんは「音楽ってこんなに楽しいんだ」ということを教えてくれた人ですね。「政治じゃないものがここにある」と思ったんですよ。「こっちのほうが楽しいや」って。

鈴木 音を楽しむと書いて「音楽」ですもんね。ちなみに田家さんは学生運動では、どこかの団体に所属していたんですか?

田家 所属はしてませんけど、赤いヘルメットは被ってましたよ。

鈴木 ほう......広島東洋カープではなく(笑)。

田家 赤ヘルは、社会主義学生同盟という、ブント(共産主義者同盟)の下部組織で、通称、社学同のシンボル。僕の母校の中央大学はブントの拠点校でしたから。でも、こんな話はしたことないですよ(笑)。僕だけじゃないでしょうけど、69年1月の東大安田講堂事件が大きかったです。あの時計台が陥落して、みんな行き場がなくなって。72年2月のあさま山荘事件に至る連合赤軍の内ゲバで、学生運動は終わりました。政治に俺たちの求めているものはない、という挫折感、喪失感が、拓郎さんの音楽で吹っ切れたんです。

【「結婚しようよ」のヒットで「商業主義に身を売った」と叩かれる】

田家 話を戻すと、「第3回全日本フォークジャンボリー」で「人間なんて」を歌い続けて、フォークファンの間で「吉田拓郎って何なんだ?」という評判が広がっていったんです。

鈴木 その上で、2枚目のアルバム『人間なんて』が出るわけですね。リリースは71年11月20日。はっぴいえんどの『風街ろまん』と同じ日です。

田家 「バンドのはっぴいえんど」「ソロの吉田拓郎」っていうイメージが、このときに決定づけられましたね。そして、拓郎さんの真のブレークは『人間なんて』収録の4枚目のシングル「結婚しようよ」(72年)です。発売は、あさま山荘事件の直前、1月です。

鈴木 一番初めに「結婚しようよ」を聴いたときはどういうふうに思われました?

田家 いいなあと。新宿のゴールデン街で毎晩飲み歩いてたんだけど、当時ゴールデン街にはまだ都電の線路が残っていたんですよ。そこにゴールデン街の店の椅子を並べて、「結婚しようよ」をみんなで歌いながら朝まで踊ってた(笑)。

鈴木 楽しそうだなぁ(笑)。「結婚しようよ」の一般的な解釈は、もう学生運動とか言ってないで、髪の毛が伸びたら結婚しようという歌詞のように、もっと気楽に構えて、個人の幸福を考えてもいいんじゃないか、というものですよね。

田家 気楽でもないんですよ。あんなに長髪を肯定的に評価して賛美した歌は他にないでしょう。世界に誇るべきロングヘア賛歌だった。長髪はこんなにかわいらしくて、幸せで楽しいことなんだよっていう宣言です。

鈴木 つまり、既成の男らしさに挑戦しているわけですね。

田家 はっぴいえんどの「春よ来い」より希望に満ちた〝俺たちの歌〟でしたね。だって、僕の髪が君と同じくらい長くなったら教会で結婚するんですよ。さらに、みんなでペンキを持ち寄ってペインティングしようっていうんですから、ヒッピーの歌じゃないですか。

鈴木 いいなあ。そういう結婚式したいなぁ。

田家 僕はしたの。八ヶ岳の麓で(笑)。

鈴木 おお、吉田拓郎の歌で人生が変わった人がここに!

田家 吉田拓郎の歌で人生が変わった。実はそういう話をされるのが一番嫌いなのは、拓郎さん本人なんです。

鈴木 え、褒められていいじゃないですか? あんたの歌で人生変わったんだって。

田家 それはお前の人生で俺のせいじゃないって。

鈴木 うわ〜、言いそうな気がするな......。

田家 「結婚しようよ」が売れたとき、客演で上がったステージでは石を投げられていますからね。「商業主義粉砕」というスローガンがありましたけど、俺たちの音楽は商業主義に敵対しているという人たちが根強くいたんです。「結婚しようよ」が歌謡曲のチャートで3位まで上がって、昼間のラジオで散々流れて、週刊誌で取り上げられて、「拓郎は商業主義に身を売った」と叩かれたんですよ。

鈴木 そんなに商業主義は忌み嫌われるものだったんですか。

田家 そうやって言うしか、自分たちの居場所を作れなかった。学生運動があんな結末を迎えて、世の中から否定されて、飲み屋の壁を殴って泣いているみたいな終わり方しかなかった。俺たちの音楽は商業主義には触らせないぞっていうところからしか始められなかったんだと思いますね。

鈴木 そんな中で「結婚しようよ」をヒットさせるとは、吉田拓郎は勇気がある人ですね。次のシングル「旅の宿」(72年)はもっと売れたわけでしょう。

田家 それで「帰れ帰れ」と言われて。でも、自身のコンサートには女の子がたくさん集まっていた。拓郎さんがその頃の話をするときに例に出していたのが、青森に初めて行ったとき、青森駅から青森市民会館ホールまで女の子の行列ができていたこと。アイドルみたいなもんでしょう。それが疎まれた時期もあって。

鈴木 それは疎まれるでしょうね。

田家 中津川のサブステージの「人間なんて」のライブ録音には、高田渡さんのステージで客席からヤジを飛ばす拓郎さんへの、高田さんの返答が入ってるんですよ。

鈴木 なんて言ってるんですか?

田家 「吉田拓郎、殺してやる」って(笑)。

鈴木 あらら......。認め合っているからこその悪態ですか?

田家 高田渡を最初に認めたのは細野晴臣さんでしょう。高田渡の1枚目、2枚目のアルバムのバックははっぴいえんどが演奏していますから。そして拓郎さんは、「日本にフォークシンガーは高田渡しかいない」と言い続けていた。「俺には歌えない歌を歌っている」と認めていました。

鈴木 いい音楽を素直に認める感性が、吉田拓郎にはあるっていうことですね。

田家 やっぱりボブ・ディランをあれだけ消化してる人ですから。

鈴木 「ビートルズ・エイジ」なんて言葉があるけど、先ほどおっしゃったようにビートルズを好きな人はクラスに3人くらいしかいなかったとすると、ボブ・ディランなんか聴いている人間はいなかったんじゃないですか。

田家 ほとんどの人はそうでしょう。僕だって岡林さんや高石ともやさん経由で知ったみたいなものです。

鈴木 田家さんの本には、吉田拓郎はボブ・ディランの写真を見てハーモニカホルダーを針金で自作した、という話が出てきますね。

田家 それも音楽雑誌とか、情報がなかったことを物語る好例です。そんな時代ですよ。

●田家秀樹(たけ・ひでき) 
音楽評論家、ノンフィクション作家、ラジオ番組パーソナリティー。1946年、千葉県生まれ。中央大学法学部卒業。著書に『小説吉田拓郎 いつも見ていた広島 ダウンタウンズ物語』『オン・ザ・ロード・アゲイン 浜田省吾ツアーの241日』『読むJ-POP 1945-1999』など多数。

●スージー鈴木(スージー・すずき) 
音楽評論家、ラジオDJ、作家。1966年、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。著書に『桑田佳祐論』『EPICソニーとその時代』『大人のブルーハーツ』『日本ポップス史 1966-2023』『ライバルたちのJポップ史~70年代フォークから令和ヒットの裏側で』など多数。

『吉田拓郎から始めるロックスター列伝』 
インターナショナル新書 
語り継ぐべき歴史がある! 日本のロック、ポップスを創成期から取材している田家秀樹と、昭和歌謡から最新ヒット曲まで独自の視点での考察が人気のスージー鈴木。年齢もバックグラウンドも異なるふたりの音楽評論家が、13人のレジェンドたちを「通説」から解き放ち、その実像、功績、知られざるエピソードまで語りつくす、語り下ろし対談本。

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