会津泰成
あいず・やすなり
会津泰成の記事一覧
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
2026年5月2日、東京ドームで開催されたボクシング興行の第4試合、OPBF東洋太平洋ウエルター級タイトルマッチは、挑戦者の佐々木尽が王者・田中空に2対1で判定勝利し、王座に返り咲いた。最後までおたがい譲らない戦いは、メインとはまた違う熱を帯び、日本ボクシング史に残る1日、「THE DAY」を5万5000人の記憶に刻んだ。
無敗の難敵王者に勝利し、世界初挑戦で喫した敗北に区切りをつけ、ふたたび世界を目指す若きボクサー。その歩みを支えるベテラントレーナー。これはそんなふたりの、『決別』と『序章』の物語である
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尽に「もっともこだわっているパンチは何か」と聞いてみた。すると間髪入れず、「左フックですね、やっぱり」と答えた。
一撃で相手をキャンバスに沈める、強烈な左フック。
いまから38年前、その左フックを武器に、日本人ボクサーとして初めて東京ドームのリングに立ち、人生を変えたボクサーがいた。
ボクサーの名前は、吉野弘幸。
吉野が会長を務める、都内の葛飾区にある「H's STYLE BOXING GYM (エイチズ スタイル ボクシングジム)」を訪ねた。
「東京ドームは、愛称がBIG EGG(ビッグエッグ)だけに、広かったね。お客さんとの距離も、すごく遠く感じた。そのぶん、逆に緊張しなかったかな。自分の試合からタイソンの登場までは時間もあったし、東京ドーム自体が珍しかったから、試合が始まってからもビールやつまみを売店で買って、会場内をうろうろと歩き回って見物するお客さんも多かったよね」
営業開始前の午後2時。ジムの掃除を済ませた吉野は、入り口脇、受付奥にある椅子に腰を落として話し始めた。
1988年3月17日、後楽園競輪場の跡地に完成した日本初の屋根付き野球場、東京ドームでは連日、さまざまなこけら落としのイベントが開催され、日本中がその一挙手一投足に注目していた。
オープニングセレモニー翌日の18日は、巨人対阪神のオープン戦が開催された。天候は新球場の価値を証明するかのような、打ってつけの雨模様だった。プレイボール直前、前年電撃引退した巨人のエース、江川卓がマウンドに上がり、ライバル同士の名勝負を繰り広げた阪神の掛布雅之相手に、東京ドームの記念すべき第一球を投じて、ファンに別れを告げた。
そして、21日――。連日のお祭り騒ぎの最後を締め括ったのが、世界も注目するボクシングのメガファイト、33戦全勝、世界ヘビー級統一王者、マイク・タイソンの試合だった。
タイソンが海外で試合をするのは日本が初めて。観客動員数は5万1000人。日本テレビは開局35周年記念プログラムとして生中継し、平均視聴率は38.9%を記録した。「タイソン来日」「初の海外試合」という出来事は、ボクシングという枠を超えて、社会現象のような盛り上がりを見せた。
「試合を終えて控え室で着替えているとき、試合の準備をしているタイソンを間近で見ることができた。オーラは凄かったけど、『意外と小さいんだな』と感じたことを覚えている。それよりも、来賓で招かれていたシュガー・レイ・レナードに会えたことのほうが、俺としては感動したかな。
俺、レナードの大ファンだったからね。試合後に『Good Fight!』と声をかけてもらい、一緒に記念撮影までさせてもらった。1年近く経ってから、レナードのメッセージ入りのポートレートが送られてきたんだよ。驚いたし、本当に嬉しかったな」
WBA・WBC・IBFの3団体統一王者のタイソンは、当時21歳。日本ではIBFがまだ未公認団体だったため、世界ヘビー級3団体統一戦は、国内向けには、WBA&WBC世界ヘビー級タイトルマッチとして扱われた。
試合は期待通りタイソンが圧倒し、2ラウンドに強烈な左フックでトニー・タッブスを沈めた。身長180センチに届かない、ヘビー級としては小柄なボクサーが、俊敏な動きと圧倒的な力で、190センチを超える大男を一撃で沈めた衝撃に、東京ドームが揺れた。
第1試合のリングに上がった吉野は、日本ウェルター級王者の坂本孝雄に4ラウンドKO勝利で新チャンピオンに輝いた。当時吉野はタイソンより一つ年下の20歳。勝負を決めたパンチは、タイソンと同じく"左フック"だった。
「でもね、俺は『噛ませ犬』役で呼ばれたんだ。パンチをブンブン振り回してガードも甘いから、相手陣営は、坂本さんが鮮やかに俺を倒す、と予想していたと思う。100人いたら99人がそうなるはずと信じて疑わなかった。所属していた渡辺ジムの渡辺(均)会長も、まさか俺が勝つとは考えていなかったしね。
東京ドームで試合ができると決まったとき、渡辺会長からは、『良い記念になるな』って言われた。俺自身も、声をかけていただけただけで嬉しかったしね。でも、あの一戦で人生は変わった。すべての景色が変わった」

東京ドーム興行に参戦する前は7勝3敗1分で、日本ランキングも8位だった吉野は、以後人生を変えた左フックを武器にKO勝利を積み上げた。
毎回、倒し倒されの激闘を繰り広げ、最後は左フックで倒す。「吉野と言えば左フック」とまで言われるようになり、後楽園ホールを満員の観客で埋めて熱狂させた。坂本戦では、チケットの現物支給も合わせて50万円にも届かなかったファイトマネーも、全盛期は、350万円まで増えた。日本はバブル景気真っ只中。とはいえ30年前の話である。当時これだけのファイトマネーを稼げる日本王者は、全階級を通じても、吉野だけだったかもしれない。
日本ウェルター級のタイトルは1993年6月23日、WBA世界スーパーライト級王者、ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)に挑戦するために返上。25歳のときである。吉野が返上までに積み上げた、日本ウェルター級14度の連続防衛は、未だに破られていない、日本ウェルター級の最多防衛記録だった。
「俺は、先にダウンを奪われた試合のほうが調子は上がった。倒されると余計に燃える。俺の試合を見て喜んでもらえたら嬉しいし、チケットを買って、わざわざ足を運んでくださったお客さんを喜ばせたい気持ちが何より強かった。『勝とうが負けようが、感動できる試合を見せるのがプロの仕事だ』と考えていたし、恩返しにも繋がると考えていた。『吉野は、なぜ左フックばかりにこだわるのか』とか、『右も使えたら良いのにね』という声もたくさん聞こえてきた。でも『だったら、左フック一発で世界を獲ってやる』って反発してたな、当時は」
勝敗に関係なく、観客に感動できる試合を見せる。それがプロの仕事――。それはまもなく同じ東京ドームのリングに上がり、日本ウェルター級の頂点を決める戦いに挑む尽とも、重なるように思えた。
「勝っても、負けても、映画のような試合を見せたい」と尽は話していた。結末がわからないから一喜一憂し、最後まで目が離せない。弾けるような歓声と息を呑む沈黙があり、予想もしない場面で物語が動き出す。それを一言で表現するならば、「The Movie」だと。
「これは、あまり話してはいないことだけど......」
現役時代について振り返った吉野は、秘密を打ち明けるような口調で、声のトーンをやや下げた。そして「気づいていた人は少ないと思うけど、俺の左フック、横から思い切り殴るだけじゃなかったんだ」と打ち明けた。
「左フックは、横から思い切り打つだけじゃなくて、軽く縦に、スコンと落とす左、"縦フック"もあったんだ。相手の死角からこめかみ付近を狙い、中指の拳ダコで、顎に向かって削るようにこする。タイミングだけなんだよね、軽くスコン、と......。それでも相手は倒せたんだ」
試合全体を俯瞰できる観客すら見過ごすような、コンパクトな縦の左フック。吉野は現役時代、それを感覚で身に付け、特に意識せず使っていたそうだが、いま思えば、「現役時代に縦フックの価値に気付いて使いこなせていたら、また違ったボクサー人生を歩めたかもしれないね」と話した。
「いま指導者としてそれを若い子に教えても、なかなか理解してもらえないんだよね。こっちは簡単だと思っているんだけど......」
どこか疑問を解消できない悩ましい思いを隠すような笑みを浮かべた。自分にしかできない技術を特別なことと誇るような響きはない。ただ本当に「なぜ伝わらないのか」と、純粋に首を傾げていた。
「いまも世界のウェルター級は、日本人にとって厚い壁のままだよね。俺が現役の頃は、日本国内の公認団体はWBAとWBCのふたつだけだったから、もしかしたら、さらに厳しかったかもしれないね」
吉野が最も活躍した1980年代終わりから90年代中盤にかけての世界のウェルター級戦線は本場アメリカを中心に層が厚く、破格のファイトマネーを稼ぐ大物ボクサーが多かった。
日本王者としてどれだけ連続KO勝利で防衛を重ねても、彼らの輪のなかに割って入れるチャンスは見えてこない。手をこまねいたまま、吉野の可能性をつぶしたくないと考えた陣営は、ビジネス、そしてマッチメイクの現実的な落としどころとして方向転換を試みた。そして、まだ日本に呼べる現実味のあったひとつ下の階級の世界王者、WBA世界スーパーライト級王者のコッジに絞ったのだ。
当時、本来はウェルター級を主戦場にしていた吉野は、みずからに過酷な減量を課して当日を迎えた。
「コッジは世界チャンピオンだから、もちろん強かったよ。でもそれ以前に、俺がスーパーライト級で戦うことは無理だった。ウェルター級でも限界まで身体を絞っていたのに、さらに7ポンド(3.175 kg)も絞るのは無謀だった。計量前日はぶっ倒れる寸前で、それでも最後の1キロがどうしても落ちなかった。計量当日も、近くにあったサウナの中で、レインスーツを着て動きまわった。『チャンピオンの計量は終わりました』『無事パスしました、挑戦者も早く来てください』と連絡が来てもまだ出られない。なんとか絞り切ってギリギリでパスした。夜は普通にご飯を食べられたけど、パワーもスタミナも、全然戻らなかったよね」
会場は日本ボクシングの殿堂、東京後楽園ホール。戦績65戦61勝2敗2分のコッジ相手に、吉野は初回、いつものように左フックで先制攻撃を仕掛けて会場を沸かせた。残り50秒からは猛然とラッシュをかけ、ロープ際まで追い詰めた。幸先の良いスタート。続く2ラウンドはコッジ優勢も、3ラウンド、ふたたび左フックを突破口に形勢をひっくり返した。だが、4ラウンド、王者の強烈な連続ボディー攻撃が、吉野の勢いを封じた。
「みぞおちの上あたり、胸骨を左アッパーで折られてしまった。それで息が苦しくなり、無理な減量の影響もあったせいで、一気にスタミナが落ちた。脚に力が入らなくなり、左フックにも、力を伝えることができなくなった。やっぱり、無理して減量するもんじゃなかったな、と後悔したね」
鼻と口から溢れる鮮血。虚しく空を切る左フック。
5ラウンド、勝利を確信したようにパンチを叩き込む世界王者。2度のダウンを奪われながらも、気力を振り絞り戦い続けた。あと一度倒れた時点で試合は終わりを告げられる。コッジの連打を耐え続けたが、とどめとばかりに左ストレートで顎を突き抜かれると、吉野は背中からキャンバスに倒れた。
「コッジにダメージを与えた場面も、あったとは思う。でも、俺は、それ以上のことはできなかったから......ね」
世界戦で敗れてからも名勝負を繰り広げて、 OPBF東洋太平洋ウェルター級、日本スーパーウェルター級王座も獲得した。だが2度目の世界挑戦は実現しなかった。
渡辺ジムから引退勧告されたことを機にボクシング業界を離れた吉野は、1997年9月7日、K-1のリングでキックボクサーと対戦もした。同年、K-1は三大ドームツアーと称して、ナゴヤドーム、大阪ドーム、そして東京ドームで大会を開催した。観客動員は、名古屋は4万5000人。大阪は3万人。決勝戦の東京大会は満員御礼、5万4500人を記録した。
ボクシング復帰後、吉野は2004年8月、37歳の誕生日を迎えてライセンスが失効するまで現役を続けた。戦績は51戦36勝(26KO)14敗1分だった。
「ボクシングは俺のすべて。リングは生きざまを見せられる場所。それって、普通に生活していたら、なかなか思えないし、経験できないことだよね。言葉は悪いかもしれないけど、『プロボクサーとしてならば、リングで死んでも構わない』という気持ちで戦っていた。いまだって、リングに上がりたい気持ちはある。58歳になったけど、60歳、70歳になったとしても、ボクシングをやりたい、リングに上がりたい、という気持ちは、おそらく一生消えない気がしている」
吉野にとってプロボクサーとして過ごした日々は、単純な良き思い出とは少し違うのかもしれない。後悔、悔しさ、消えることのない渇望を伴いながら、いまも身体の奥でうずき続ける、現在進行形の日々のように思えた。
吉野は、尽が東京ドームで戦う空とは、幼少時代から繋がりがあった。空の父親であり師匠の元日本ミニマム級2位の強士と知り合いで、小学生の頃、ジムにスパーリングに来たそうだ。
「お父さん、叔父さん、おじいちゃん、みな元プロボクサーで、家がジムだよね。『田中ボクシングジム』といって、まさにボクシング版の『虎の穴』だね。空は、当時から負けん気が強くて"生粋のファイター"って雰囲気だったな。顔つきも子供の頃から変わらない。プロデビューして少しして再会したとき、『頑張っているね』と声をかけたら、『ありがとうございます』と丁寧に頭を下げてくれた。普段はおとなしくて口数も少ないけど、謙虚で真面目で、本当に良い子だよ」
東京ドームでの尽と空の試合について聞いてみた。ふたりはどんな戦いを見せ、そしてどんな結末になると予想するか、と。
吉野は、尽の試合をジムの受付にあるパソコンで何試合か見たあとこう答えた。
「空はフック系はもちろんだけど、ストレートもやや横から打つ動作が基本にあるから、正面のガードが空いてしまう時間は長くなる。尽からはそこを、左のリードジャブや、右ストレートで突かれるかもしれないね」
試合の構図は「足を止めた接近戦に持ち込みたい空と、それを押し返したい尽」と予想した。さらにこう続けた。
「空は接近戦で細かくパンチを出して、コンビネーションで倒すイメージがあるかもしれないけど、一発は尽と同じようにある。尽の試合は会場で見たことはないけど、いまこうして映像で見る限りは、パンチも多彩だね。当てるタイミングも良い。左フックだけじゃなくて、右も良いパンチが打てているよね。空にはアマ仕込みの技術があるけど、尽も、思っていた以上に上手いボクサーだね。おたがい研究し尽くして対戦するわけだから、試合は意外に長引くかもしれない。もしかしたら、最後までもつれる可能性もある気がする」
5戦5勝5KOを誇る空の、KO勝利の確率は100パーセント。
20勝のうち、18KOを誇る尽の、KO勝利の確率は90パーセント。
吉野はそれでも「判定決着もあり得る」と予想した。
最終的に、どちらが勝利する可能性が高いと思うか、と聞いてみた。すると「それは予想したくないかな」と答えた。
「空のことは子供の頃から知っているし、尽も良い子そうだし、だから......ね」
試合当日はジムの会員等、15人の大所帯で現地観戦する予定だ。2024年5月の井上尚弥対ルイス・ネリ戦は仕事の都合で行けなかったが、吉野は38年ぶりに、東京ドームへと足を踏み入れる。今度はリングに立つ"ボクサー"としてではなく、ボクシングを愛する"一ファン"として。内野指定席上段、3万3000円のチケットも手配済みだ。
「東京ドームを熱くする試合をしてくれたら嬉しいよね。勝とうが負けようが、メインに負けないような試合。感動できる試合を見せることが、プロの仕事だから」
と吉野はエールを贈った。
「これ、良かったら」
インタビューを終えて写真撮影をし、荷物を片付けているときだった。「話に夢中になり過ぎて、お茶も出さずに申し訳なかったね」と、ジムの冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し手渡してくれた。
「俺が今日話したことは、試合が終わるまでは、空にも尽にも、一応、内緒にしておいてね。余計な話を聞いて、大事な時期に気にさせてしまったら、申し訳ないからね」
吉野はジムの玄関先まで見送ってくれると、両手にパンチングミットを装着してリングに入り、練習生の指導を始めた。

「自分のやりたいことができていない。良いところも生かせないまま、勢いに巻き込まれた感じですかね。何だろうな、相手のパターンに巻き込まれてしまう感じというか......」
東京ドームの試合まで、1か月を切った――。
尽は週2、3回のペースでスパーリングを続けていた。
ラスベガス合宿ではアメリカ、メキシコ、キューバなど、国籍、体格、リズム、圧力、そしてパンチの質も異なる、世界基準の中量級ボクサーたちと拳を交えた。
現WBA世界ウェルター級王者ローランド・ロメロとも互角に打ち合えて、世界に向けた手応えも得た。もちろん日本のジムでは、同じ環境は準備できない。帰国後、尽は自分より重い階級のボクサー相手に、接近戦に強い空の圧力に負けない準備をしていた。
「まだ距離感がつかみきれない。相手が詰めて来たとき、対応しきれず腰が浮いてしまったり......。『これじゃないんだ』と思っています」
理想と現実のイメージは、リングの中ではまだひとつに重なっていなかった。

●佐々木尽(ささき・じん)
2001年7月28日生まれ、 東京都出身のプロボクサー。八王子中屋ボクシングジム所属。5月2日に行われたOPBF 東洋太平洋ウェルター級タイトルマッチでは王者・田中空を判定で破り王座に返り咲いた。オーソドックス (身長174cm・リーチ176cm)、通算戦績は24戦21勝(18KO)2敗1分。