2日目のサンプリングサイト「ヴァンバンの洞窟」。拠点となる街・ヴァンバンから車で30分ほどのところにある。写真中央に見える岩盤の穴が、この日のサンプリングサイトとなる洞窟の入り口。
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第191話
通行止めで分断されてしまった「大旅団」。それでも洞窟を目指して前進する。コウモリの生息地を前に、緊張感あふれる探索がついに始まったが......。
* * *
【「ヴァンバンの洞窟」へ】
話し合いの結果、「こちら側」にいるわれわれは、落石現場からサンプリングサイトである「ヴァンバンの洞窟」まで戻って、そこでトンさんたちベトナムチームの到着を待つことになった。
来た道を10分ほど引き返し、サンプリングサイトに到着する。それは、山あいを通る幹線道路沿いの岩山の中腹にある洞窟だった。その麓の駐車場に待機して、情報のアップデートを待った。
トンさんを含めたベトナムチームは通行止めの「あちら側」のバンに乗っていたが、ベトナムチームの中でひとり、ルンだけが私たちのバンに乗っていた。ベトナムチームの到着を待つ間に私たちは、ルンにリーダーになってもらい、洞窟にアクセスできるかを試すことにした。サンプリングも撮影もしなければ、洞窟の中に入ること自体には問題はないからだ。
たくさんのとうもろこしが生えた山道を、数百メートルほど登っていく。地面が土であるので、また、生えているとうもろこしの木々を支えにできるので、この道のりはさほど困難ではなかった。
このとうもろこしは自生ではなかった。それが植えられていることからも、ここが誰かの畑のようなものであることがわかる。つまり、この洞窟のすぐそばまで、こんな東南アジアの「辺境」まで、人間活動が確実に介入していることを意味していた。そして地面をよく見ると、何かを焼いたような、焚き火の跡のようなものも見受けられた。
とうもろこし畑の先、洞窟にアクセスするまでの最後の50メートルほどは、平坦ではない崖の道のり。山登りの経験がほとんどない中年の私にはあまりにも危険すぎる。ヘタするとすぐ死ぬと判断し、洞窟に行くことは諦めた。
結局、登山や野外活動に長けた、私のラボのポスドクのUと大学院生のFが、ルンと一緒に洞窟の中に入り、私とインドネシア人大学院生のSは、他のメンバーたちと一緒に、この日のサンプリングの「拠点」となっている駐車場で待機することにした。
(上)「ヴァンバンの洞窟」に向かう途中、とうもろこし畑の先のところからの景色。結構な高さ。せまる夕暮れ。(下)下山しようと思ったが、どんなルートをたどって登ってきたのかわからない。広がるとうもろこし畑。
【好転する事態】
みんなが集まる「拠点」の駐車場に戻ると、いくつかの情報が更新されていた。
まず、トンさんが「事務所」で許可を得るにあたって、政府関係者の同席は不要となったこと。政府関係者が電話で状況を丁寧に説明してくれて、今回は特例として、同席なしでの許可が認められたという。これで政府関係者が「事務所」に向かう必要がなくなった。
そして、肝心のサンプリングも、トンさんの「ヴァンバンの洞窟」への到着を待たずとも、許可さえ得られれば始めてよい、ということになった。
サンプリングのための仕掛け、つまり「ハープトラップ」や「ミストネット」は、落石現場の「あちら側」にいる、トンさんが乗るベトナムチームのバンに積まれていた。しかし、仕掛けを積んだこのバンは、トンさんだけを「事務所」に残して、すでにこちらに向かっているという。そして、落石現場の「こちら側」にいる1台のバンが、トンさんを「事務所」まで迎えに行くことになった。
そんな話をしているうちに、洞窟の横を走る幹線道路に車が流れ始めた。落石による通行止めが解除されたのだ。そしてトンさんから、「サンプリングの許可を得た」という連絡が入った。
――17時過ぎ、ベトナムチームのバンが「ヴァンバンの洞窟」に到着。日の入りまではあと1時間。ルンを含めたベトナムチームによって、急ピッチでトラップの設置が進められた。
そして日没の直前に、ついにトンさんも「ヴァンバンの洞窟」に到着。薄暮の中、重なるトラブルにも動じることなく身支度を整えて洞窟に向かうトンさんの後ろ姿は、映画『アルマゲドン』の主人公であるブルース・ウィリスが、地球を救うために宇宙船に乗り込むシーンのそれにも重なって見えた。コウモリ生態学者としての経験と自負が滲み出たその背中に、頼もしさすら覚えた。
【サンプリング開始!】
今日は今日とて、想定外のドタバタ劇ではあった。しかし、それでもなんとかここまでたどり着くことができた。
先に洞窟に入っていたメンバーたちから、洞窟の中を飛ぶコウモリの動画が送られてきていた。そこには、コウモリもちゃんといた。そして日没前に、トラップの設置も完了した。あとは夜になり、コウモリが捕まるのを待つだけだ。
18:30過ぎに日没。私とインドネシア人大学院生のSは、すっかり暗くなった駐車場で、コウモリから検体(ぬぐい液)を採取する準備を着々と進める。
予定では、19:30過ぎに大学院生のFが、そして21時過ぎにはポスドクのUが、捕獲したコウモリを洞窟から「拠点」の駐車場に運んで、そこで検体の採取を進める、という算段になっていた。
そして19:30過ぎ、大学院生のFから、現状を伝える連絡が私のスマホに届いた。
「――洞窟の中をたくさんのコウモリが飛んではいるのですが、捕獲されたのは目的ではない種のコウモリばかりで、キクガシラコウモリはまだです」
――言葉が出なかった。1週間前にはたくさんのキクガシラコウモリがいたという洞窟のはずなのに、なぜそれが捕まらない??
それからしばし、言葉のない時間が続いた。辺りには蛍が飛び交っていた。
ベトナム北西部の山奥、その山あいの向こうから、赤い満月が昇り始めた。NHKが雇ったベトナム人通訳はすでに、どこからか手に入れた「ローカルワイン」をひとり飲み始めていた。幹線道路を通る車の走る音だけで、漆黒の周囲には静寂が訪れ......てはいなかった。
近隣の家から、ナイトクラブのようなイケイケの音楽が爆音で流れていたのだ。それが山にこだまし、山あい一円がクラブハウスのようにすら感じられた。思い返せば、洞窟のある山をびっしりと埋め尽くしていたとうもろこし畑。こんな山あいにまで通る舗装された幹線道路。人間の活動が、東南アジアのこんな山奥でも営まれていることを痛感する。
――20時過ぎ、トンさんの判断で撤収が決まった。今日の捕獲匹数はまさかのゼロ。駐車場の私たちも、使うことなく終わった検体採取の道具一式を、言葉なくスーツケースに片付け始めた。
撤収が終わって、戻ってきたトンさんに、今日の状況を聞いてみた。
洞窟では、キクガシラコウモリ「だけ」がいなくなっていたという。飛び回っていたのはすべてキクガシラコウモリに似た別のコウモリで、私たちが目的とするキクガシラコウモリだけが姿を消してしまっていたというのだ。
先週まではたくさんのキクガシラコウモリがいたのに、なぜ今週になって消えてしまったのか? しかもなぜ、キクガシラコウモリ「だけ」が消えてしまったのだろうか? 「ローカルピープル」による乱獲のせいなのであれば、コウモリの種類などは関係なく、ごっそりと消えてしまいそうなのに。
トンさんが目につけたのは、洞窟に向かう道中で私も見かけた焚き火の跡だった。キクガシラコウモリは、他のコウモリに比べて多湿を好み、湿度に過敏なのだという。
「ローカルピープル」がおそらく、1週間前にトンさんたちが下見をした後に、なにかしらの理由があってここで焚き火をした。煙は湿度を下げる。煙が洞窟の中に充満したことで、洞窟の中の湿度が下がってしまい、それに過敏なキクガシラコウモリ「だけ」がその洞窟を離れてしまったのだろう。これがトンさんの推理だった。
理由はなんにせよ、今日の成果がゼロということに変わりはない。このパッとしない結果にそれっぽい理由をつけたインタビューをNHKのカメラに収められ(このシーンはもちろん放送されなかった)、「ヴァンバンの洞窟」を後にした。
22時、ホテル近くのレストランで、みんなで夕食をとった。収穫がなく、検体を回収する操作がなかった分だけ、この日の夕食は昨日よりも早かった。
ベトナムでは、「みんなで集まる食事は鍋」という慣習でもあるのだろうか。この日の夕食はヤギ鍋だった。ショウガが効いて、絶妙にヤギのダシが出たスープが独特な味わいの絶品であったことだけがこの日の収穫だったかもしれない。
ブン(そうめんのような丸麺の米麺)を器に入れ、ヤギ鍋の汁をかけて食べる。そして、氷を浮かべたサイゴンビールを煽るように飲んだ。
食事を終えた後、酔い醒ましも兼ねて、ホテルまで歩いて戻ることにした。観光地ではないヴァンバンの夜は暗く、虫や蛙の大合唱が町中に響いていた。
部屋に戻ると、ベンジョコオロギが床を跳ね回っていた。さらによく見ると、部屋の床には無数のハネアリの羽根が散らばっていた。
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