会津泰成
あいず・やすなり
会津泰成の記事一覧
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
2026年5月2日、東京ドームで開催されたボクシング興行の第4試合、OPBF東洋太平洋ウエルター級タイトルマッチは、挑戦者の佐々木尽が王者・田中空に2対1で判定勝利し、王座に返り咲いた。最後までおたがい譲らない戦いは、メインとはまた違う熱を帯び、日本ボクシング史に残る1日、「THE DAY」を5万5000人の記憶に刻んだ。
無敗の難敵王者に勝利し、世界初挑戦で喫した敗北に区切りをつけ、ふたたび世界を目指す若きボクサー。その歩みを支えるベテラントレーナー。これはそんなふたりの、『決別』と『序章』の物語である
* * *
会見場に笑いを起こしていた尽の様子を、少し離れた場所から見守る男がいた。
中屋一生――。廣隆の息子であり、八王子中屋ジムの二代目会長。大橋ジム会長・大橋秀行からも厚い信頼を寄せられる、ジムの経営者であると同時に、ボクシングのマッチメーカーでもある。
一生は、尽の東京ドーム参戦を実現させたキーマンだった。
日本ボクシング史上4度目となる東京ドーム興行に尽を参戦させ、国内だけでなく世界へ向けてその存在をアピールする。
そんな構想を抱いた一生は2025年6月19日、尽がWBO世界ウェルター級王者、ブライアン・ノーマンJr.に挑み、5ラウンドKO負けしたその翌日から動き始めた。
尽が担架で運ばれてリングを降りた2日後には大橋会長のもとを訪れた。水面下では1年後の5月、井上尚弥と中谷潤人がメインで対戦する東京ドーム興行の構想が動き始めていた。そのアンダーカードに、尽も参戦できないかと打診するためだった。
「尽の世界戦を実現して下さった大橋会長に、あらためてお礼と、期待に応えられなかったお詫びを伝えに出向きました。いろいろとお話をした最後に、『ところで東京ドームの予定は、どうなっていますか』と伺って、『アンダーカードで、尽を空くんに挑戦させていただけないでしょうか』と単刀直入にお願いをしてみました。大橋会長は、にかーっと笑って、『それ、面白いね』と......」
OPBF東洋太平洋ウェルター級王者、田中空――。
戦績は5戦5勝5KO。年齢は尽と同じ24歳で、階級も同じウェルター級。そして、やはり同じように一発で試合を決められるファイターだった。ただしボクサーとしての道のりは、尽とはまるで違った。
尽は中学までは柔道と掛け持ちで、練習も週に2、3回程度。プロを目指して本格的にボクシングと向き合い始めたのは高校からだった。アマチュア戦績は1勝3敗。プロデビューは17歳になってすぐ、高校2年生の夏休みだった。
祖父、大叔父、そして父も元プロボクサーという家系に生まれた空は、3歳からボクシングに親しんできた。キッズ、ジュニア時代から名の知れた存在で、高校3冠、大学2冠に輝いた。アマチュア戦績は66戦58勝(39RSC)8敗。大学卒業後は大橋ジムに所属し、2024年4月、23歳でプロデビューした。
尽はプロデビューしたのち10戦目、19歳で日本スーパーライト級ユース王座に就いた。そして16戦目、21歳でWBOアジア太平洋ウェルター級王座を獲得。だが、道のりは一直線ではなかった。
8戦目となるはずだった2019年11月、東日本ライト級新人王決勝は、体重が作れずに棄権した。12戦目、2021年10月19日の日本・WBOアジア太平洋スーパーライト級王座決定戦でも計量失敗。条件付きで開催された試合は11ラウンドTKO負け。6か月間のライセンス停止処分も下された。ウェルター級に転向したのはそれ以降である。その後も、2023年には左肩に大怪我を負い手術を受けるなど、ボクサー生命を危ぶまれた時期もあった。
空は、23歳でプロデビューした。4戦目でOPBF東洋太平洋ウェルター級王座を獲得し、その4戦はすべてノックアウト勝利だった。ちなみに同タイトルを獲得した日のメインイベントは、尽とノーマンJr.のWBO世界ウェルター級王座決定戦だった。
生まれ育った環境、ボクシングとの出会い、そして、歩んできた道はまるで違うふたりは、奇しくも同じ"世界ウェルター級"という日本人未踏の地を目指し、日本ボクシング史上4度目となる東京ドーム興行で拳を交える。メインとはまた違った熱を帯びたカードだった。
「わたしから提案したにせよ、尽の東京ドーム興行への参戦が実現したのは、すべて大橋会長のおかげです。わたしは提案はできても、興行を動かせるような力はありません。どれだけ絵に描いた餅が素晴らしくても、食べられなければ何の意味もないですから」
一生が話すように、東京ドーム興行のマッチメーカー、プロモーターは、大橋ジムの大橋秀行会長だ。だが、尽と空の試合については、一生の提案が大橋会長の心を動かしたことは間違いない。
一生は、なぜ尽が世界戦で敗れてすぐに動き始めたのか――。
背中を押したのは、尽と父・廣隆がやりとりする姿だった。その姿は、いまも鮮明に一生の記憶に残っていた。

「ノーマンJr.に倒された尽の意識はすぐ戻りました。試合後の検査でも、頭部の出血など異常は見つかりませんでしたし、医師からも入院の必要はないと言われ、普通に自宅まで戻って行きました。それでも何か連絡があるかもしれないと、明け方まで起きて待機していました。
もうひとつ気になっていたのは、何も出来ないまま負けたことで、尽が『練習環境を変えたい』とか、『ジムを辞めます』とか言い始めたらどうしようかと心配していました。
でも翌日、ジムに顔を出すと、『あれっ』となりました。あの景色はいまも鮮明に覚えています。それで、次は自分が仕事をする番だと思い、すぐ大橋会長に打診しました」
ノーマンJr.に敗れた翌日、一生がジムに顔を出すと思いがけない光景があった。左奥にある事務室の明かりが灯り、扉は半分ほど開いていた。ファイティングポーズをとりながら向き合う、尽と廣隆の姿が見えた。椅子には座らず、ふたりは立ったまま話し込んでいた。
「ボディへの左ジャブは、もっとこう打てば......」
「なるほど」
「あの場面はこうやって......そうすれば、尽は倒せたと思う」
「たしかに」
廣隆は、試合の場面をひとつひとつたどるように、身振り手振りで見本を示していた。
尽は廣隆の動きを見つめ、言葉を聞き、同じ動きを確かめるように反復していた。
「尽は必ず、世界を取れる」
「はい」
「志を失わない限り、自分も最後まで付き合うから」
「ありがとうございます」
一生は、すぐには事務室に入れなかった。ふたりの世界に入り込んでは悪いような気がしたからだ。自分が来たことに気づくと、尽は明るい声で挨拶をしてきた。
「昨日はありがとうございました」
左目の下に青く腫れは残るものの、声の様子からして、身体の方は大丈夫に思えて安心した。廣隆も、自分の方を見て穏やかな表情を浮かべた。
「おつかれだったね」
世界戦を実現させるために奔走した息子を、父は一言、労(ねぎら)った。昨日までの険しい勝負師の顔から、穏やかな表情に戻っていた。
尽と廣隆。ふたりの信頼関係は、あれだけの敗戦を経ても、微塵も揺らいではいなかった。
「父は、佐々木尽というボクサーを誰よりも理解しています。アプローチの仕方、ボクサーとして器用なタイプではないことも、誰よりもわかっています。練習で苦労して積み上げた技術を、試合では全部捨てて、尽の感性のままに任せることも日常です。
『ポイントポイントで成果が出れば良い』と父はよく話します。おそらく尽は、それが心地良いのだと思います。多少の衝突はあるかもしれませんが、尽の方も、父のことを立ててくれます。立てた上で自分の意見はしっかり伝える。おたがい認め合いつつ、程よい距離感も保てている。そんな関係性に見えます」
日本人未踏の地、世界ウェルター級王座――。挑戦はできても、ベルトを奪うためには途方もなく高い壁がある。だが、尽も、廣隆も、諦めることなく前を向いていた。ならばなおさら、会長の自分も立ち止まるわけにはいかない。一生はそう思った。 
一生は、初めからボクシングジムの会長になることを志していたわけではない。ライフワークとして廣隆の手伝いをするうち、気付けばいまの立場になっていた、という表現が正しいかもしれない。
「一応、10代からボクシングはしていましたが、あくまで運動不足解消というか、趣味の範囲でした。父からも、無理に勧められたことは一度もありません。子供の頃は父がボクシングジムを始めたのかも知らず、気づいたのは少し経ってからでした。
海外の文化や生活に対して、特にアメリカへの憧れもあり、23歳のとき、語学留学でニューヨークに渡りました。語学専門学校に通いながら、生活費を稼ぐためにデザイン事務所でアルバイトを始めました。並行して、ブルックリンにあるグリーソンズ・ジムにも通い始めました。でも、ボクシングがしたい、というよりも、節約のためにスタジオで住み込み生活していたので、シャワーを借りるためでした」
一生は、「あくまで生活の知恵として」と笑った。だが、ボクシングに人生を賭ける父を持つ彼が図らずも引き寄せられたのは、アメリカのボクシング史そのものと言える聖地だった。
1937年にブロンクスで創業したグリーソンズ・ジムは、ボクシングの黄金期も低迷期も見てきた名門である。時代をまたいで、モハメド・アリやマイク・タイソンも汗を流した。また、ボクシングという競技の枠を超えれば、1980年公開、マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の映画『レイジング・ブル』のために、デ・ニーロが身体を作った場所。2004年公開、クリント・イーストウッド監督・主演、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン出演の映画『ミリオンダラー・ベイビー』では、スワンクもトレーニングを重ねた。
グリーソンズは、トップボクサーだけに閉じられた特別な空間ではなかった。プロを目指すアマチュア、エクササイズ目的で通う地元の人々、仕事帰りの弁護士やビジネスマン、どこか素性の知れない者たちまでが出入りする。リングの中では、プロの隣でアマチュアが拳を構える。ボクシングジムでありながら、そこにはニューヨークという大都市の雑多さが、そのまま詰まっていた。一生は、図らずもそんな場所に5年間も身を置いた。
ボクシングを軸に、人種も、カルチャーも、思想も、生活の階層も混ざり合う世界。
意識していたかどうかは別にしても、一生は、トップファイターたちの熱、匂い、息づかい、さらにはボクシングに関わる人間の幅広さにも触れた。
ボクシングとは、ただ勝敗を決めるものではない。人を惹きつけ、記憶に残り、ひとつの物語として立ち上がるもの。のちにマッチメーカー、プロモーターとして発揮される独自の美学は、名門ジムでの経験によっても、少なからず育まれたのではないだろうか。
休日も、ボクシング観戦のために大小問わずさまざまな会場へと足を運んだ。次第に観戦だけでなく、試合の感動を伝えたい。そんな衝動に駆られるようになった。ツテを頼り、日本のボクシング専門誌にお願いをして取材パスを得た。見たい試合を自由に見られる環境を作ることが目的だったが、自ら申し出て小さな記事も書いた。
ニューヨーク暮らしは、トータルで5年にもおよんだ。その後はおよそ2年間、中南米、ヨーロッパ、東南アジアと世界およそ50か国をまわる放浪生活を続けた。その際も、常にボクシングとは関わり続け、あらゆる国の選手、数多くの関係者とのつながりもできた。日本から来たボクサーが困っていれば、セコンドや現地でのサポートを、ボランティアでしたりもした。
「父には、30歳までには日本に帰るつもりと伝えていました。父は元来、『人生はみなそれぞれ。息子であろうと生き方に口出しはしない』という考え方なので、一切干渉はされませんでしたが、自分の身の振り方については、一応の区切りは必要かな、と漠然と考えていました」
30歳で帰国した一生は、廣隆の仕事を手伝い始めた。興行のプロモーターライセンスも取得し、廣隆からノウハウを学んだ。報酬は受け取らなかった。実家暮らしだったこともあり、必要な分だけアルバイトで稼いだ。当初は「海外での経験が多少なりとも役立てば」という、学生時代の部活動のような感覚だったが、徐々に活動はひろがり、同時に責任も重くなった。
転機は2012年5月12日だった。
「淵上誠が、WBAの世界ミドル級王者だったゲンナジー・ゴロフキンに挑戦しました。試合は、ゴロフキンの母国のカザフスタンではなくて、ロシアを挟んだウクライナのキエフ州で開催されました。八王子中屋ジムの選手として、初めての世界挑戦者が淵上でした。自分にとっても、このときがマッチメーカーとしての初仕事でした」
当時29歳の淵上は、OPBF東洋太平洋ミドル級王者で、WBA同級9位にランクされていた。世界王者を日本に招聘するためには、ファイトマネー以外にも多額の費用が必要だった。現実的な選択肢は、「海外で挑戦する」ことだった。
一生はラスベガスで開かれたWBC総会へ飛び、現地でゴロフキン陣営と接触した。のちに世界3団体統一王者となり、ミドル級を代表する存在となるゴロフキンも、まだ本格的にアメリカ進出する前で、世界的な知名度も現在ほど高くなかった。
一生はそこに可能性を見た。
名刺交換から始まった交渉は数か月後、ニューヨークの試合会場で具体的な話へと進んだ。返答が届いたのは、それから数日後。指定された試合開催日まで2か月足らず。金銭面を含めた交渉の機会は一度きりだったが、一生は話をまとめた。
ニューヨークで暮らし、世界各地のリングサイドに身を置いてきた経験は、ここでひとつの結実となった。言葉を交わし、表情を読み、空気を察し、落としどころを探る力。初めての世界戦交渉であっても、異国の相手と向き合えるだけの土台があった。
試合は3ラウンドTKO負け。王者の拳は、とてつもなく硬く強かった。だが、一生にとっては大きな財産となった。海外に出ることから逆算して選手と向き合う。一生の視点の下地には、このときの経験がある。

2025年6月19日――。
それは尽が初めて世界のリングに立った日であると同時に、一生が会長として、10年2か月という時を経て辿り着いた世界初挑戦でもあった。
「マッチメーカーとしては、父からは最初に『興行の良し悪しはマッチメークで8割決まる』と教えられました。それは『勝利の確率が8割』という意味ではありません。『試合内容は、組んだ時点でほぼ決まる』という意味です。マッチメークした時点で、内容や結果はイメージしておく。試合後は、自分の見立てが正しかったのかを確認する。トレーナー経験がない分、わたし自身はお客さんをより意識した試合や、興行全体を考えるタイプかなと思います。
プロモーターとしては、より注目されるポスターのデザインを考えたり、チケットにも画像を入れるなど見栄えを意識します。試合当日の演出も可能な限り挑戦します。パンフレットも、デザインや写真、文章にこだわって、読み返していただけるように工夫します。試合と同じように作品として見ていただけたら嬉しいですね」

横浜で記者会見を終えた尽は、いったん自宅に戻ったあとスーツを脱いで、一時間ほど休憩したのち、夕方6時からジムワークを再開した。ジムに一生の姿はなかった。会見終了後も大橋会長との打ち合わせ等で、八王子に戻れるのは夜遅くになりそうだった。
八王子中屋ジムでは、廣隆が待っていた。
「尽、おつかれだったね」
穏やかな笑顔を見せた廣隆。尽も挨拶すると、黒の短パンとTシャツに着替えて、フロアでシャドーをして体をほぐした。続いて、グローブは装着しないまま、弟の革とマスボクシングを始めた。尽より4歳下の革は、去年12月、ミドル級で全日本新人王を獲得した。兄のような華のあるボクサーになることが目標だった。
マスを終えると、グローブを装着してリングへと上がる。廣隆が見守るなか、サブトレーナーの三男廣介が構えるミットにめがけてパンチを打ち込み始めた。
課題にして取り組んできた、左リードジャブの確認。左フックは、コンパクトかつ切れ味を意識し、角度やポジションを変えて上下に打ち分けた。さらに、「最近ようやく、形になりつつある」と廣隆が口にする右ストレートとつなげた。
ノーマンJr.戦からの再起戦となった前回、2月のマーロン・パニアモーガン戦では、左フック一閃で相手を沈めた。尽本人がいま意識していることは、「魅せるボクシング」と「勝つボクシング」の両立。いかに打たせず、かつダメージを負わずに戦えるか。観客にアピールしたい気持ちが強すぎて、裏目に出て空回りすることもあったからだ。
「空選手との試合は、簡単に終わる勝負にはならない。空選手とは何度もスパーリングをしているので、パンチもスピードも、細かい技術もある危険な相手であることはわかっています。大胆に、わかりやすいパンチで倒すことは、いまも大切にしています。それをなくしたら、自分ではなくなってしまうので。でも、わかりやすいパンチだけでは、空選手には通用しない。『まずは勝利。その先に魅せるボクシングがある』というふうに、最近は考えるようにもなりました」
「自分自身、もっと進化していかないと勝てない」と尽は答えた。
少し間を置いて「でも......」と続けた。「やっぱり、一発で相手を倒して会場を沸かせる試合のほうが、自分の理想なんですよね」と――。
尽に「もっともこだわっているパンチは何か」と聞いてみた。すると間髪入れず、「左フックですね、やっぱり」と答えた。
一撃で相手をキャンバスに沈める、強烈な左フック。
いまから38年前、その左フックを武器に、日本人ボクサーとして初めて東京ドームのリングに立ち、人生を変えたボクサーがいた。
ボクサーの名前は、吉野弘幸。

●佐々木尽(ささき・じん)
2001年7月28日生まれ、 東京都出身のプロボクサー。八王子中屋ボクシングジム所属。5月2日に行われたOPBF 東洋太平洋ウェルター級タイトルマッチでは王者・田中空を判定で破り王座に返り咲いた。オーソドックス (身長174cm・リーチ176cm)、通算戦績は24戦21勝(18KO)2敗1分。