東京ドーム物語、もうひとりの主演ボクサー "ザ・ムービー"佐々木尽 ②

取材・文・撮影/会津泰成

2026年5月2日、東京ドームで開催されたボクシング興行の第4試合、OPBF東洋太平洋ウエルター級タイトルマッチは、挑戦者の佐々木尽が王者・田中空に2対1で判定勝利し、王座に返り咲いた。最後までおたがい譲らない戦いは、メインとはまた違う熱を帯び、日本ボクシング史に残る1日、「THE DAY」を5万5000人の記憶に刻んだ。 

無敗の難敵王者に勝利し、世界初挑戦で喫した敗北に区切りをつけ、ふたたび世界を目指す若きボクサー。その歩みを支えるベテラントレーナー。これはそんなふたりの、『決別』と『序章』の物語である

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「"育てる"ということは、そういうことだと思うんですね。最後は本人次第です。窮地に陥ったときの力も、本人の身体の中にあるものです。1から10まで、すべてこちらが答えを伝えれば良いわけではありません。それを理解しているトレーナーほど、普段は選手に対して何も言わないものではないでしょうか」
 
廣隆が見守り続けてきた、尽の小さな変化――。 

ラスベガスで重ねたスパーリングの最中、その変化は確実に顔を覗かせていた。しかも、そのときのスパーリング相手は、ただの強敵ではなかった。 

彼は「Rolly(ロリー)」という愛称で呼ばれていた。 

ふてぶてしい態度と、対戦相手を大胆不敵にあおるトラッシュトークでアンチを量産する一方、熱狂的なファンを抱えるカリスマ。 

2025年5月、Instagramで1200万人以上のフォロワーを抱えるボクシング界の異端児、あのライアン・ガルシアからダウンを奪う大番狂わせを演じ、判定勝利でWBA世界ウェルター級レギュラー王座に就いた、ローランド・ロメロだった。 

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【現役世界ウェルター級王者の拳】

現役世界ウェルター級王者でもあるロメロとのスパーリングは、当初から予定されていたものではなかった。 

本来、尽はこの日は別のボクサー、ドミニカ共和国出身の元WBA&WBC世界スーパーライト級王者、アルベルト・プエジョとする予定だった。ところが数日前に、プエジョが練習中に肘を負傷したと連絡が入り延期になった。 

ラスベガス合宿の目的は、できる限り多くの世界基準のボクサーとスパーリングを重ねること。1か月という限られた時間の中で、1日たりとも無駄にはできない。プエジョとのスパーリングが延期になったとき、廣隆はすぐに次の相手を探した。交渉の末、代役として現地在住する日本人のボクシング関係者を通じて紹介してもらえたのが、たまたま日程の空いていたロメロだった。
 

スーパーライト級の元世界王者、プエジョを凌ぐ最強の相手。同じウェルター級の、しかも現役世界王者とのスパーリングは、尽にとっては思いがけず巡ってきた幸運でもあった。

尽と廣隆は、現地でサポートしてくれるジョナサンと3人で、Fight Capital Gymから車で5分ほど離れた場所にあるロメロの練習拠点、Dauntless Boxingまで出向いた。スパーリングについて、廣隆は知人を介して「6ラウンドでお願いしたい」と相談した。だが、ロメロ陣営から返ってきた答えは、 

「We'll give him four. That's it(4ラウンドだけなら相手をしても良い。ただし、それだけだ)」 

どこか突き放すような、上から見るような視線。廣隆は、 

「Thank you. We'll take it.(ありがとう。じゃあ、よろしく)」 

と笑顔で答えた。関係者とのやりとりの様子を見ていた尽も笑顔で小さく頷いた。尽の方を見て、廣隆も小さく頷いた。
 
ラスベガスでのロメロとのスパーリングについて、尽はこう振り返った。 

「ロメロ選手のパンチは、本当に強かったですね。ボクシングスキルは、ノーマンJr.選手のほうが高いと思いました。でも、破壊力は間違いなくロメロですね。まともにパンチを浴びれば、一発でKOされると思います。ジャブも、フックも、ストレートも、どれも強烈なパンチばかりでした」
 
初回は手の内の探り合いになった。 

尽はロメロの強打を警戒して様子を伺った。ロメロも、積極的には攻撃を仕掛けて来ない。急遽頼まれた、日本から来たボクサー相手のスパーリングに、もしかしたら、乗り気ではなかったのかもしれない。
 
ロメロを本気にしたい。本気で殴り合いたい。そう考えた尽は2ラウンド、積極的に攻撃に出た。相手が世界3階級王者であり、ウェルター級の現役世界王者だとしても、目指している頂きは同じ場所である。このまま手の内の探り合いで、終わるわけにはいかない。尽はそう思った。 

ロメロの強打をガードを固めて凌ぐ尽。攻撃できる隙間を探して、練習を積み重ねてきた左リードジャブから一旦腕を引いて左ボディアッパー。そして、尽の最大の武器である左フックを、次々と打ち込んだ。
 
廣隆はその様子についてこう振り返った。
 

「あくまで自分から見ての印象ですが、初回は、手の内の探り合いのまま終了しました。ですが2回、3回は、尽のほうが明らかに積極的でした。そして、良いボクシングをしていました。それでロリーも、ようやく気持ちが入ったのか、だんだんとムキになり始めました。そうしたら最後の4回に......」 

4ラウンド、攻撃のペースを上げてきたロメロに、尽はロープ際まで追い詰められた。現役世界ウェルター級王者の強烈なパンチが襲い掛かる。ロメロは去年5月2日、ニューヨーク・タイムズスクエアの特設会場で、あのライアン・ガルシアから、2ラウンドに強烈な左フックでダウンを奪った上で判定勝利した。その破壊力を、尽はロープ際まで詰められて浴び続けた。 

耐え凌ぐ尽。しかし......。 
 
「尽が右ストレートをカウンターで返しました。ロリーの右ストレートを外して、カーンっと。それが見事にヒットしました。まさにドンピシャリ、というタイミングで、ロリーがぐらつきました。もちろん試合とスパーリングでは、緊張感も試合運びも全く違います。単純に、評価できるものではありません。ただ、仮にスパーリング用の16オンスのグローブではなくて、試合用の8オンスグローブでスパーリングをしていたら、ロリーからダウンを奪えたかもしれません。尽の右ストレートは、そのぐらい見事に決まったカウンターでした」 

思いがけない反撃を受けたロメロ。体勢を立て直すとすぐにファイティングポーズを取った。ロリーはさらに攻撃の手数を増やし、試合さながらの熱を帯びてきた。餌に飢えた野獣が獲物に襲いかかるようなロメロの反撃に、尽も応じた。これがファイナルラウンド。身体にあるすべての力を出し切るようにして打ち合った。そしてブザーの音。こうしてスパーリングは終了した。 

廣隆は尽のヘッドギアを外し、汗を拭い始めた。振り返ってロメロの方を見る。ヘッドギアをつけたまま、なぜか次のラウンドの準備をしていた。廣隆は6ラウンドのスパーリングを依頼したが、ロメロ陣営からは「4ラウンドだけなら」と断られた。なのに、いまロメロ陣営は、続行を望んでいるように思えた。 

「You want more?(まだやるのか?)」 

廣隆がロメロ陣営にたずねた。返ってきた答えは「Sure(もちろん)」。ロメロ自身も息を整えて戦う準備をしていた。 

廣隆はロメロ陣営の希望を尽に伝え、どうするかを確認した。 

「いや、今日はこれでやめておきます」 

尽は淡々と答えた。 

「そうだね、それが良い」 

廣隆も淡々と答えた。 
同じ階級の世界王者。つまり、いずれ対戦するかもしれない相手でもあった。自分の現在地、そして可能性は確認できた。ならば、これ以上は手の内を見せることは避けたい。廣隆は、尽のそんな心中をすぐに悟った。 

*  *  *

「Winner Jin!(尽の勝利だ)」 

スパーリングを終え、Fight Capital Gymまで戻る車中、ジョナサンはまるで自分がリングで戦い勝利したかのように喜びながら拳を突き上げた。 

「This is just sparring.(ただのスパーリングに過ぎないから)」 

廣隆は穏やかな笑顔で答えた。 

滞在先に着く頃、廣隆はスマートフォンに、ロメロとのスパーリングを実現してくれた知人からメッセージが届いていることに気づいた。 

添えられていたのは、ロメロと肩を組む尽の写真だった。サラス・ボクシング・アカデミーの公式アカウントにも、その写真とともに、こんな言葉が投稿されていた。 

「"Arigato" for the great work today!!(今日は素晴らしい練習をありがとう!!)」

廣隆は思わず口元を緩めた。 

【想いーー「The Movie」】

2026年3月30日――。 

尽は横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ4階の会見場に、淡いグレーのダブルスーツ姿で現れた。このハレの日のために、ラスベガスで仕立てた一着だった。 

表地は落ち着いた淡いグレーで、内側には赤いボクシンググローブが並ぶ裏地があしらわれていた。人懐っこい笑顔を見せる普段の尽と、リングの中で拳を握る尽。そのふたつの顔が一着のスーツの表と裏に重なっているようにも見えた。 

ひな壇のテーブルについた尽は、左側に置かれていたマイクを右手に持ち替えて、大勢の報道陣の前で開口一番、こう言い放った。 

「八王子中屋ジム所属、大空に、カミナリを落としにやってまいりました」 

笑いが起きた。 

隣に座っていたのは、対戦相手の田中空だった。尽は司会者から、何度もスパーリングを重ねている空について「一番気をつけたいポイントはどこか」と聞かれると、迷わずこう答えた。 

「全部なんですけどね。全部なんですけど、まずは曇りにして、そして、雨を降らして、カミナリで打ち抜いてやろうかなと思ってます」
 
ふたたび会場から笑い。報道陣からはさらに質問が飛ぶ。 

「佐々木尽選手、さきほどから"大空"で、"カミナリ"、"落とす"、というのは......どういうイメージで?」 

空も釣られるようにして、笑みを浮かべた。決して皮肉った笑みではなく、親しみを込めた笑みだった。 


空は尽とは、アマチュアボクサーだった大学時代も含めて、これまで何度もスパーリングを重ねてきた間柄だった。ともにウェルター級で世界を目指すライバルであると同時に、同志という思いがあったからだ。それは尽も同じ気持ちだった。 

尽は、空がやや下を向いて笑いを隠す仕草を気にするそぶりもなく答えた。 

「崩しですよね。カミナリがKOみたいなイメージで」 

それを聞いた空は、 

「なんかそういう例えが出てくると思わなかったので、ちょっと面白かったです」 

と照れくさそうに答えた。 

相変わらずの尽節。 

それは言葉だけを拾えば、サービス精神から出た独特の表現に聞こえたかもしれない。不器用でどこか憎めない。笑いを誘い、周囲の空気をやわらげる。本人が意識してなのかどうかは別にしても、そうした言葉の選び方もまた、佐々木尽というボクサーの魅力のひとつだった。 

東京ドームという大舞台で試合ができることは、幸せであり、光栄であり、夢のようでもある――。 会見に出席したボクサーたちはみな、自然とそうした言葉を並べた。 

ボクサーにとって、東京ドームは特別な場所。誰しも立てることが許されるリングではない。尽もその意味は、わからないわけではなかったし、決して軽んじてもいなかった。記者からのそうした質問にも、似たような答えを返してきた。ただ、心の奥にあった感覚は少し違っていた。 

自分の目標は、東京ドーム出場ではない。 

東京ドームだから何なのか、関係ない。 

5月2日は必ず勝利して次に進む、そのためのステップ。 

あそこは単純に、田中空という危険な相手と戦う場所に過ぎないのだ、と――。 

いまこの場でそれを口にすれば、真意とは違う形で受け止められることは、さすがに尽も理解していた。 

不器用で真っすぐな性分は、鼻っ柱の強さ、生意気さとして切り取られる。勝負に対する純粋な思いが誤解を招いたことも、一度や二度ではなかった。尽は本音を胸の奥に仕舞って、会場に流れる祝祭の空気のなかに身を置いていた。 

「結構、自分って嫌われていると思いますよ。自分みたいなタイプは、嫌いな人もいますよね、きっと。自分だって嫌いな雰囲気の人もいるし、ひとそれぞれ、考え方や感じ方はいろいろありますからね」 

尽はのちにそう話した。ただし生意気と誤解されるような発言をすることはあっても、対戦相手を否定したり、ののしるようなトラッシュトークは一度もしたことはない。会見でも取材でも、対戦相手を呼び捨てにはせず、必ず名前の最後に「選手」と付けていた。 

「相手を悪くいうのは、『なんかダサいな』と思っちゃいます。それはあまり、かっこいいとは思えないので......」
 
尽はこの日、東京ドーム興行に向けて募集していた自身の愛称も発表した。 寄せられた応募は1000通以上。そのなかからチームで検討を重ねて、最後に尽自身が決めたのが、「The Movie」だった。 

勝っても、負けても、映画のような試合を見せたい。 

どんな結末が待っているのかわからないからこそ、観客は一喜一憂し、最後まで目を離せなくなる。歓声が起こり、感情が揺れ、忘れられない場面が生まれる。尽がリングの上で見せたいのは、「勝敗を超えた、映画のような時間」だった。そして「The Movie」という言葉と出会った瞬間、尽は、それこそが自分の中にある思いを、ストレートに表してくれているように感じた。 

「田中空選手って、"大空"とか"青空"っていうイメージがあるので、自分は"宇宙"でいこうかな、みたいな。その上に行って、エイリアンみたいな感じで」 

「まあなんか、『裏の世界タイトルマッチ』っていう感覚の試合になると思います」 

会見は、尽のサービス精神から生まれる独特の言葉にたびたび笑いが起き、和やかに進んだ。そんな一方で、ひな壇で見せた明るい表情の奥には、表には出していない時間があった。 

ラスベガスの大空の下、尽は世界の中量級ボクサーたちのリズム、圧力、パンチの質を身体に染み込ませてきた。ロメロとのスパーリングでは、世界の頂に立つボクサーの破壊力を肌で知り、同時に、自分の拳がその領域に届く感触もつかんだ。笑いを誘う言葉の裏側で、尽は世界再挑戦に向けての手応えも胸に、東京ドーム、そして空との戦いに備えていた。 

「大空に、カミナリを落とす」 

会見場に笑いを起こしていた尽の様子を、少し離れた場所から見守る男がいた。 

中屋一生――。廣隆の息子であり、八王子中屋ジムの二代目会長。大橋ジム会長・大橋秀行からも厚い信頼を寄せられる、ジムの経営者であると同時に、ボクシングのマッチメーカーでもある。 

一生は、尽の東京ドーム参戦を実現させたキーマンだった。 


●佐々木尽(ささき・じん) 
2001年7月28日生まれ、 東京都出身のプロボクサー。八王子中屋ボクシングジム所属。5月2日に行われたOPBF 東洋太平洋ウェルター級タイトルマッチでは王者・田中空を判定で破り王座に返り咲いた。オーソドックス (身長174cm・リーチ176cm)、通算戦績は24戦21勝(18KO)2敗1分。

  • 会津泰成

    会津泰成

    あいず・やすなり

    1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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