東京ドーム物語、もうひとりの主演ボクサー "ザ・ムービー"佐々木尽 ⑥

取材・文・撮影/会津泰成

2026年5月2日、東京ドームで開催されたボクシング興行の第4試合、OPBF東洋太平洋ウエルター級タイトルマッチは、挑戦者の佐々木尽が王者・田中空に2対1で判定勝利し、王座に返り咲いた。最後までおたがい譲らない戦いは、メインとはまた違う熱を帯び、日本ボクシング史に残る1日、「THE DAY」を5万5000人の記憶に刻んだ。 

無敗の難敵王者に勝利し、世界初挑戦で喫した敗北に区切りをつけ、ふたたび世界を目指す若きボクサー。その歩みを支えるベテラントレーナー。これはそんなふたりの、『決別』と『序章』の物語である

*  *  *


やみくもに前進するだけではいずれつかまり、空が得意とする接近戦で餌食になる。 

近い距離でどう相手の力を逃がし、自分の距離、自分の形を作れるか。 

「これじゃないんだ」 

理想と現実のイメージは、リングの中ではやはり、まだひとつに重なっていなかった。 

次に渡邊と拳を合わせるのは、9日後の4月23日と決まった。 

東京ドームに向けたスパーリング総仕上げ。掴みかけた感覚を、どこまで自分のものにできるか。新たに生まれた課題を、どこまで克服できるか。 

残された時間は多くなかった。 

【動かない壁】

迎えた4月23日。リング中央で軽くグローブタッチをし、スパーリングが始まった。尽は右へと小さく反転しながら、右のリードジャブを突いた。そこからワンツー。出だしは悪くない。積極的な仕掛け。過去2回のスパーリングで見つけた課題を確認するように、丁寧なボクシングに徹した。  

渡邉はすぐには仕掛けてこず、様子を窺っていた。 

尽はロープを背にしつつ、右側へとスライド。空いている場所を探し、ワンツーを打ちながら前へと出る。渡邉は崩れない。パンチはほとんど出さず、壁のように立ちはだかり、にじり寄るようにして圧力をかける。前回と同じく身体を低くして潜り込むように近づいてきた。 

尽は距離を作ろうとするがすぐに消された。左肩を渡邉の胸に当てて押し返す。ただ、8キロ以上の体重差は、そうそう簡単には攻略できない。何度押しても戻された。身体を入れ替えようと試みるも動かない。やがてふたりは、抱き合うような形のままキャンバスに倒れた。 

すぐに立ち上がり、スパーリング再開――。もう一度、グローブを合わせた。するとすぐ、渡邉は奇襲をかけるようにギアを上げた。 

詰まる距離。押し返す尽。また詰まる。 

コーナーではパイプ椅子に座った廣隆が、サブトレーナーの廣介と一緒に様子を窺っていた。ジムに流れるテンポの良いBGMに、韻を踏むように尽がパンチを打つ際の吐息が響いた。 

尽は、"壁"にぶつかっていた。 相手の拳ではなく、どれだけ攻めても動かない壁に。 

最大の武器である、一撃必殺の左フックはまだ出さない。繰り出すパンチは「左リードジャブから右ストレート」という基本的なワンツーが中心だった。 

ジャブ、ワンツー。 前に出て、またジャブ、ワンツー。
 
派手さを削ぎ落とし、基本に立ち返るように正確な攻撃を繰り返した。 

左フックの封印は意図的なのか。それとも、打ちたくても打てないのか――。 

ラスト30秒。ようやくコンパクトな左フックを出した。そこからショートの右ストレート。さらに右に小さくまわりながら、左フック2連発――。 

見えた一瞬のチャンス。だがふたたび渡邉に抱え込まれるように抑えられて、攻撃が続かない。仕掛けてはいるが、主導権は握り切れなかった。 

「ラウンドツーッ!」 

タイマーをセットした廣介が叫んだ。額を付けて、たがいに短いパンチを出し合った。拳をねじ込む空間などほとんどない、"超"の付くような接近戦。それは9日後、空が作ってくるはずの距離でもあった。 

渡邉が空戦を想起させるようなショートアッパーを連打した。 尽は一旦下がり、体勢を整えてからふたたび前へと出た。またも左手で頭の上を押さえられ、続けて右手を横から入れられて体勢を崩した。  

「しゅうや、ナイス! それ良いね」 

渡邉のコーナーには、中大ボクシング部副将、篠田立輝がついていた。渡邊は静岡から上京して以来、同部屋の篠田に何かと面倒をみてもらってきた。もっとも身近で、もっとも信頼を寄せる先輩だった。腰を痛めて以来、篠田は試合に出られない。だからこそ、自分の思いも乗せて、渡邉のサポート役を買って出ていた。 

詰めれば潰される、その繰り返し。 

体重差は防御面でも、尽には不利に働いた。そこにアマチュア仕込みの技術も加わり、尽の"らしさ"は消された。 

もちろん体重差はある。単純に同じ条件の勝負ではない。とはいえ、世界戦まで経験し、まもなく、OPBF東洋太平洋ウェルター級の頂点を懸けて東京ドームのリングへと上がるボクサーが、アマチュアの大学生に、自分のやりたいことを封じられていた。
 
廣隆はそれでも、愛弟子に声を荒げない。細かな指示も出さずに、腕を組んだまま静かに見守っていた。

【思考ーーラスト3分間の攻防】

3ラウンド目。尽は戦い方を変えた。 

超接近戦から一転、中間距離での戦いを試みた。渡邉が前進してくると大きくまわって距離を保つ。1、2ラウンドとは違う戦法だった。 

小刻みにステップを踏みながらワンツー。パンチを当てるだけなら、尽のほうが1枚も2枚も上手である。捕まる前に動き、相手が入ってくる瞬間に、少しだけ距離をずらして打った。気持ちにゆとりが生まれたせいか、尽は腕をだらりと下げ、渡邉を懐に誘った。
 
来い、と言うばかりのジェスチャー。 

応えるように渡邉が出てきた。瞬間、尽の左フックがカウンターで決まった。 

倒したい。ねじ伏せたい。強さを証明したい。 

以前の尽ならば、気持ちの強さが時に裏目に出て空回りすることもあった。いまは違う。どうすれば捕まらないのか。どうすれば自分の距離を作れるのか。どうすれば相手の圧力を利用できるのか。リングの中で考えながら戦っていた。 

「アイッ! アイッ!」 

渡邉が気合を入れるように、大きな声を出しながら攻めてきた。渡邉も相当にスタミナを消耗しているように見えた。尽も呼応するように声を出し、圧力に負けじと押し返した。

「ラスト!」 

尽と渡邉。両セコンドが同時に叫び、最終4ラウンドが始まった。泣いても笑っても、尽にとってはこれが東京ドーム前の最後の3分間。 尽は、左ジャブを連打しながら前進した。やはり頭を押さえつけられ、ロープまで詰められた。それでも打つ、打たれたら、それ以上に打ち返した。 

左フックをボディに叩き返し、攻撃できる空間を探した。ロープを背負えば膝を曲げて腰を落とし、押された反動も利用するようにしてパンチに力を乗せた、そのときだった。 

廣隆がようやく、スパーリング中の尽に声をかけた。 

「いいよ尽、後ろに体重かかってないから」 

技術だけを指しているようには聞こえなかった。押されている。ロープを背負っている。スタミナも消耗している。それでも尽の身体、気持ちは後ろに逃げていない。だから、打てる。だから、返せるーー。 

「はい、ボディ!」 
「いいよ、ボディ!」 

廣隆は、最終4ラウンドを迎えるまでは、尽の戦いぶりを静かに見守っていた。どこで声をかけるべきかを見極めていた。 

黙って見て、待つ。必要なときにだけ、短く、言葉を置く。 

アドバイスを受けた尽は、左腕で首をロックされるように押し返されながらも、ボディへの攻撃を執拗に続けた。 

「相手、嫌がってるよ。ボディ打たれるの嫌がってる」 
「ナイスボディ!」 
「そうそう、ボディ」 

アマチュアの公式戦では経験できない未知のラウンドと向き合う渡邉も最後の力を振り絞っていた。尽はそんな渡邉に、打たれたら必ずそれ以上にパンチを返した。おたがいの意地がリングの中でぶつかっていた。 

【ファイティングポーズ】

「ラスト1分!」 

廣介が告げた。尽は相変わらずボディを打たれてもお構いなし。頭を左右に振り的を絞らせない。「ボディならどれだけ打たれても効いていない」と言わんばかりに前進した。 

「ラスト30秒!」 

尽は上体をのけぞらせながらも打ち返した。 

「しゅうや、ラストだぞ、ラスト!」 

鼓舞された渡邉は、左右のフックを連打する。 

「ラスト5秒!」 

廣介の声が聞こえた瞬間、渡邉の強烈な右ボディストレートが、尽の腹に突き刺さった。そして、返しの左フックも決まった。 

渡邉にとって、この日一番と言っていいコンビネーションだった。 

尽は倒れない。下がらない。 打たれた位置に踏みとどまり、ファイティングポーズを構え続けていた。 

終了を告げるブザー。 東京ドーム前、最後の3分間が終わった。 


●佐々木尽(ささき・じん)
2001年7月28日生まれ、 東京都出身のプロボクサー。八王子中屋ボクシングジム所属。5月2日に行われたOPBF 東洋太平洋ウェルター級タイトルマッチでは王者・田中空を判定で破り王座に返り咲いた。オーソドックス (身長174cm・リーチ176cm)、通算戦績は24戦21勝(18KO)2敗1分。

  • 会津泰成

    会津泰成

    あいず・やすなり

    1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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