3か国目、カンボジア。プノンペンにあるカンボジアの「王宮」。荘厳。周囲には芝生があり、市民たちの憩いの場になっている。ちなみにこの写真の撮影のあと、この王宮の前を、反戦デモの若者たちが練り歩いていった......。
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第203話
タイからカンボジアへ。プノンペンでも「コウモリ寺」を訪ね、川沿いでは偶然入った店のカエル料理とペッパーソースに衝撃を受ける。街では、タイとの国境紛争をめぐる反戦デモが続いていた。月の満ち欠けのように移ろう「国境」というものに思いを馳せる。
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【コウモリの巣のお寺・その2】
プノンペンに到着した翌日、ルームサービスで朝食を注文する。4ドルの「クイティウ」。それを16000リエルで支払う(「リエル」はカンボジアの通貨で、4000リエル=1アメリカドル)。
クイティウは、私の旅の味方たるベトナム料理のフォー(21話、41話、99話、136話などに登場)やビーフンと同じ、米粉の麺料理。米粉で作ったそうめんのような感じ。スープはやはりフォーのような澄んだスープで、やさしい味。
カンボジア料理、クイティウ。米粉で作ったそうめんのような、細い丸麺のフォーのような感じ。
本来の用務の前に、改めてプノンペンのコウモリ寺「ワット・プノン」を訪れてみた。
前回の訪問(165話)では見つけることのできなかった住処(すみか)であるが、今回はきちんと、タイのコウモリ寺「ワットポー・バーンクラー」(202話)で見たのとまったく同じように、無数のコウモリが群がる木を見つけることができた。Google Mapsを見てもたしかに、「Flying Fox Sanctuary Tree」というランドマークが付いていた。
ワット・プノンの近くに生えた1本の木。ちょっとわかりづらいが、写真に写る黒い点は全部コウモリ。
【「ペッパーソース」とカエルによる至福のひととき】
ホテルに戻る午後の昼下がり、トンレサップ川沿いを散策する。週末だからか、ナイトマーケットの準備が進んでいた。
ちょっとひと休みがてら、川沿いのレストランに入り、カエルのフライとジョッキの生ビールを注文した。
プノンペンでは、その安いビールで何度も喉を潤した。シンガポールの「タイガー」、タイの「シンハー」など、東南アジアにもそれぞれの国のオリジナルビールがあるが、カンボジアには「アンコール」というローカルビールがある。短期間にいくつかの国を訪れてそれぞれの地ビールを飲んだが、このカンボジアのビールが私の口にいちばん合った。
そしてなにより、このカエルのフライの付け合わせで出てきた「ペッパーソース」、これが驚愕の美味さだった。止まらない。あまりの美味さにソースだけおかわりをする。
店員にこのソースの名前や作り方を聞いてみるも、「え、コショウに、ただライムを絞っただけのものだけど......」という戸惑いの回答。「カンボジア コショウ ソース」でググってみても、たしかに特別な名前のついたソースはなく、「挽いたカンボジアのコショウ(『カンポットペッパー』というのが有名)にライムを絞ったもの」、「ペッパーソース」、程度の説明しか出てこない。
――すまんカンボジア。これを食べるまで、カンボジア料理をナメていた。「タイ料理とベトナム料理の折衷」みたいな形容しか思いつかなかったのだが、このソースだけで充分にお釣りがくる美味さである。
キンキンに冷えたアンコールビール(キレのある薄いビールだから、飲み始めると止まらない)を飲みながら、ペッパーソースをつけたカエルの脚の骨をしゃぶり、止むことのない原付バイクの往来を眺める日曜の昼下がり。
ちょっとひと休み、と軽い気持ちで入ったレストランのテラス席で結局、カエルとペッパーソースをつまみに、3時間ほど居座った。生ビール5杯とカエルでたった10ドル。これを至福と呼ばずになんと呼ぼうか。
(上)食前。(下)食後。写真右下の小皿にあるのがペッパーソース。
【カンボジア・タイ国境紛争】
その翌日、前回(165話)と同様に、カンボジアパスツール研究所を訪問する。
しかしなんと、打ち合わせをするはずの肝心のエリック(165話、169話)がいない。どうやら家庭の事情かなにかで、急遽アメリカに逗留しているというではないか。仕方がないので、エリックとはメールでやり取りをして、研究所に残るスタッフや学生たちと個別に打ち合わせをした。
この出張の当時、まさにカンボジアとタイの国境地帯での紛争が本格化していた。これについては、この週プレNEWSにも、タイムリーに詳しい解説記事が出ていた。
日本を発った頃にはまったく耳にしないニュースだったが、シンガポールに到着するなり、これを報じる声がだんだんと大きくなった。CNNやCNA(シンガポールの主要なニュース局)でも取り上げ始めている。ネットで調べてみると、日本の大手規制メディアでも報道が始まっているようだ。
バンコクでもプノンペンでも、研究の話がひと段落するとすぐにこの話題。どちらの国でも、「あちらが始めた」「あっちが悪い」という一方的な罵詈雑言である。
もちろん、その場に居合わせたすべての人たちが、この件について言及したわけではない。また、バンコクにはタイ人しかいなかったし、プノンペンにはカンボジア人しかいなかった。であるからして、当事者同士の「ディベート」を目の当たりにしたわけではない。
傾向として、「やれやれ」という肩をすくめたようなジェスチャーとともに、大人びたどこか冷めた目線で事態を語るタイ人に対して、カンボジア人は、「戦争反対!」「兵隊さんたちを助けよう!」「募金しよう、寄付しよう!」という、とても素朴で前のめりな声を上げていたのが対称的だった。実際、プノンペンの都心では、ほぼ連日、若者たちによる反戦デモが繰り返されていた。
正直、この話題には辟易(へきえき)した。どこへ行っても、ふた言目にはすぐにこの話題なのである。
言うまでもないが、タイもカンボジアも、私にとっては大切な共同研究先である。どちらの肩を持つつもりもない。そもそも彼らにとって異邦人である私は、この件の詳しい歴史背景も、今回の有事のきっかけの詳細も知らない。
この話題に溜まりかねていたのは、どうやら私だけではなかったらしい。ある食事の席で、やはりずっとこの話題が延々と続いているところで(私は諦めて黙々と食事をしていた)、同席していた、カンボジア人でもタイ人でもない東南アジア人のあるスタッフが言った。
「みんなさっきから、『自分の国境』の話や、『自分の国の遺跡』の話をしてるけれど、その境界はヨーロッパによる植民地化の『後』のものよね。そして今、植民地化の『前』の歴史の話はだれもしてないわよね。それはなぜ? その頃の歴史ははっきりしているの? というかそもそもその時代に、タイやカンボジアなんていう明確な線引きの『国境』なんてあったの?」
――現在のタイとカンボジアには、それぞれを象徴する、アユタヤ王朝とクメール王朝がある。どちらも現在の両国につながる重要な歴史のひとつではあるが、それらを現在のタイ王国やカンボジア王国とそのまま重ね合わせることはできない。
このコラムを書きながら少し調べてみると、たしかに彼女の言う通りだった。それぞれの王朝の支配の境界線は、地図上にくっきりと線を引けるようなものではなく、月の満ち欠けのように揺らぎ、重なり合い、ときに滲み合っていたようだ。
このプノンペン滞在中に、マレーシアやアメリカの仲介のもとで、停戦合意がなされた。しかしプノンペン市民はそれを信じていないのか、デモは止まず、また報道を見ても、まだ小競り合いが続いていた。このコラムを書いている2026年9月現在、戦闘は止まっているが、紛争は解決していない状態にあるようだ。
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