今宵の月のように~バンコク、チャチューンサオ 【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】

文・写真/佐藤 佳

タイ・チャチューンサオのサンプリングサイトにて。自然保護区の中なので、周囲の住民の目に留まることはないから安心ではあるが、こんな集団が山奥で活動しているところが見つかったりでもしたら、SNSでバズるどころの騒ぎではないだろう、とも思ったりもした。タイ・チャチューンサオのサンプリングサイトにて。自然保護区の中なので、周囲の住民の目に留まることはないから安心ではあるが、こんな集団が山奥で活動しているところが見つかったりでもしたら、SNSでバズるどころの騒ぎではないだろう、とも思ったりもした。

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第201話

シンガポールからタイへ。待っていたのは、下弦の月の下でのコウモリのサンプリングツアーと、総勢30人近い研究者たち。そして、なぜかそこに現れた「謎の中国人研究者」。警戒していたその男は、まさかの――。

* * *

【バンコクへ】

1週間ほどシンガポールに滞在し、細々とした手続きを進められるだけ進めた後、バンコクに飛んだ。シンガポールでの手続きの中には、申請から承認まで、数日から1週間ほどかかるものもある。その待ち時間を有効活用して、タイでの仕事を進めることにしたのである。

到着早々、タイの「サームヤーン」と呼ばれる地区の定宿の近くにあるコインランドリーを見つけ、シンガポールで溜まっていた洗濯物を一掃する。

(上)シンガポールのコインランドリー。(下)バンコクのコインランドリー。洗濯も乾燥も、バンコクのそれは、シンガポールのそれの半額以下。(上)シンガポールのコインランドリー。(下)バンコクのコインランドリー。洗濯も乾燥も、バンコクのそれは、シンガポールのそれの半額以下。

この時期のバンコクは、ちょうど雨季にあたるらしい。過去の訪問に比べれば、たしかに青空を仰ぐ機会が少なく、雲行きも怪しく、気温は低い割に、湿度が高いように感じた。

『西南シルクロードは密林に消える』をすでにシンガポールで読み終えていた私は、この道中、高野氏の処女作『幻獣ムベンベを追え』を読み始めていた。前者は東南アジア・ミャンマー奥地、後者はアフリカ・コンゴ奥地を探検したノンフィクションである。

この本には、「モケーレ・ムベンベ」という、コンゴ人民共和国(現・コンゴ共和国)の奥地にある「テレ湖」という湖に生息すると言い伝えられている幻の怪獣を見つけるために、早稲田大学探検部だった著者のチームが、その湖畔にひと月ほどキャンプした様子が綴られている。

その軽妙な語り口の文章に引き込まれる一方で、開発途上国との付き合い方の難しさがそこかしこに滲み出ている。ひとりの隊員はマラリアで死にかけるし、現地スタッフとの諍(いさか)いは絶えない。「外向きのチャレンジ」(27話)の渦中にいる私は、やはりバンコクでも、そんな彼の冒険に没入した。

【まさかの登場人物】

タイへは、共同研究をしている、チュラロンコン大学の研究者・スパポーン女史(175話)の研究チームが進めるコウモリのサンプリングツアーに同行するために訪問した。しかし、私たちのプロジェクトのためのサンプリングツアーのはずが、その出発の2週間前に、「ある中国人の研究者も同行する」というメールがタイから届いていた。

......え? いやいや待て待て。このプロジェクトは機密性が高いはずだ。そういう共通認識だったはずなのに、それに見知らぬ中国人の研究者が同行? しかもそれはもう確定事項のようで、私には事後報告のような語り口。これは私たちの共同プロジェクトで、その費用はすべて、私の研究費から捻出しているものなのだが......。

とりあえず、その知らない中国人研究者の名前をググってみる。いかにも「ザ・政府関係者である!」と言わんばかりの、軍服を着たカタブツの写真が出てくる。

どうにも陰鬱な気持ちになった。このサンプリングツアーに同行することになっていた私のラボのポスドク(博士研究員)とも、「どんなやつかわからんし、われわれの研究内容についてはできるだけ秘密にしておこう」と、バラしても良いこととダメなこと、つまり情報統制について、事前に綿密な打ち合わせをしていた。

――そしていざ、サンプリングツアー出発当日。参加メンバーが全員集合する。そこにはもちろん、懸念していたその中国人研究者の姿もあった。

対面し、握手をし、その顔を見て言葉を失った。

......た、高野秀行??

私がネットで見つけた彼の写真が、過度に加工されたものだったからなのか、昔のものだったからなのかはわからない。いずれにせよ、私が見た写真の原型を微塵も留めていない。私がそこで会ったのは、およそ政府関係っぽいにおいなど微塵も感じさせない、気さくで陽気な、かなりカジュアルな男だった。

「中国では、昼飯の後には午後2時まで昼寝をするのがならわしだ!」と言って、ランチの後にはところ構わず昼寝を始める。セブンイレブンに買い出しに出かけたと思ったら、大量のチョコバーを買い占め、参加メンバーひとりひとりに配り始める。

ある日には、路肩に出ていたドリアンの露店を見つけると、彼はすぐさま数個購入し、それをみんなに振舞っていた。まだ熟していない実だったようで、甘さもにおいもなかったが、それでも彼はそれを、うまいうまいとバクバク食べていた。

(左)道路沿いで売っていたドリアン。(右)中身。「フレッシュ」という表現もできなくはないが、においも味もなく、正直何を食べているのかわからなかった。(左)道路沿いで売っていたドリアン。(右)中身。「フレッシュ」という表現もできなくはないが、においも味もなく、正直何を食べているのかわからなかった。

彼のそのような行動も、あるいはもしかしたら私(たち)を懐柔するための高度な策略なのではないか? はたまたただの天然なのか? 私には判断がつかなかったが、彼には妙な親近感が湧いてしまい、警戒心を緩めてしまったのも事実である。

【チャチューンサオサンプリングツアー】

サンプリングツアーの目的地は、この連載コラムにも登場したことがあり、また私も数ヵ月前に視察に来たことのがあるチャチューンサオ(170話、175話を参照)。前回と同様、バンコクから東へ、バンで3時間ほどかけてチャチューンサオへ向かう。上述の高野秀行風中国人以外、前回(170話)とほぼ同じメンバーである。

チャチューンサオへのサンプリングチーム一行。総勢30人に迫る大所帯となった。チャチューンサオへのサンプリングチーム一行。総勢30人に迫る大所帯となった。

サンプルを処理するための「基地」となる建屋。このコラム冒頭の写真とほぼ同じ画角で撮ったもの。この1階のピロティが「サンプリング基地」になる。サンプルを処理するための「基地」となる建屋。このコラム冒頭の写真とほぼ同じ画角で撮ったもの。この1階のピロティが「サンプリング基地」になる。

同行する中国人研究者が高野秀行(に似ている)――。そうなるともはや、チャチューンサオのサンプリングサイトの眼前に広がる名もない湖も、『幻獣ムベンベを追え』に登場するコンゴの山奥の「テレ湖」に見えてきてしまったりもする。

チャチューンサオのサンプリングサイトの近くある宿舎。過去に経験した、ボルネオ島やベトナム北西部のそれらに比べたら全然マシ。めっちゃ快適だった。リゾートのようにすら感じた。チャチューンサオのサンプリングサイトの近くある宿舎。過去に経験した、ボルネオ島やベトナム北西部のそれらに比べたら全然マシ。めっちゃ快適だった。リゾートのようにすら感じた。

ここでは2日間にわたって、私たちは100匹のコウモリを捕獲した。

このサンプリングサイトには一度来たことがあるし(170話)、スパポーン女史のチームによるサンプリングの様子も、科学雑誌『サイエンス』の誌面(175話)で見たことがある。しかし、実際にその様子を生で見ると、それはものすごい光景であった。

タイ語での伝達が飛び交う中、コウモリの性別判定、体重や翼の長さの測定、スワブ(ぬぐい液)や血液の採取、それらの保存処理など、それぞれが担当する仕事が淡々と進む。その無駄のない流れ作業の中、タイ語のわからない外国人が混じっても邪魔なだけなので、私は細かな後方支援に徹した。

下弦の月の下、人里離れた山奥の夜の帷(とばり)の中、白装束(PPE、個人防護具)を纏(まと)った20人以上の人たちが、建屋の薄灯りの下でいそいそと活動するさまは、ともすると、四半世紀ほど前に騒がれたとある宗教団体の活動のように見えなくもないな、と思ったりもした。

サンプリングの様子。白装束(PPE、個人防護具)を纏った20人以上の人たちが、夜中に灯りの下で作業するさまは異様以外のなにものでもないが、自然保護区の中であるがゆえ、周辺住民の目に触れて面倒なことになる、というようなことはない。素晴らしく統率がとれたメンバーで、その流れ作業には度肝を抜かれた。100匹近いコウモリの検体やデータの収集が、わずか数時間で終わった。サンプリングの様子。白装束(PPE、個人防護具)を纏った20人以上の人たちが、夜中に灯りの下で作業するさまは異様以外のなにものでもないが、自然保護区の中であるがゆえ、周辺住民の目に触れて面倒なことになる、というようなことはない。素晴らしく統率がとれたメンバーで、その流れ作業には度肝を抜かれた。100匹近いコウモリの検体やデータの収集が、わずか数時間で終わった。

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  • 佐藤 佳

    佐藤 佳

    さとう・けい

    東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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